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笑った女鬼の島  作者: アコウ丸


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25話 生活

 フェリーを降りてすぐ、港に隣接するようにある集落は古い民家や、それを改築した民家、たまにコンクリート造りの建物があったりと、色々な顔を見せていた。

 そして、その間を通り抜ける道は思っていたよりも細かった。車が一台通れるかどうかの道幅。低い石垣。庭先に干された洗濯物。土の匂いが残る畑。アスファルトに落ちる夏の影。

 港や海水浴場のような騒がしさはなく、耳をすませば遠くに人の声が聞こえる程度だ。

 何もない、というわけではなかった。むしろ何かはずっとある。

 ただそれは、看板に書かれた説明でも、写真を撮りたくなるような景色でもなく、見ようとしなければ通り過ぎてしまうようなものばかりだった。

「今日はここを描くのか?」

 前を歩く少女にそう聞くと、少女は振り返らないまま頷いた。

「うん」

「本当にただの集落だな」

「ただの集落だよ」

「それで、どこを描けばいい?」

「んー、今日は千冬が決めてよ」

「え、俺が?」

「うん」

「急に投げるなよ」

「投げてないよ。信頼して任せてるだけ」

「ほんとかよ」

 少女は前を向いたまま、少しだけ肩を揺らした。からかわれているのか、試されているのか、よくわからない。

 俺は仕方なく周りを見渡す。

 古い民家の軒先、石垣、細い路地、コンクリートの壁に落ちた濃い影。

 どれも目立つものではない。けれど、今までならその一言で片づけていたはずのものに、少しだけ引っかかるようになっていた。

 ちゃんと見るためには、何を描けばいいのかではなく何を見落としているのか。

 そんなことを考えるようになっている自分に気づいて、少しだけ変な感じがした。

「……じゃあ、あそこ」

 俺はそこから少し歩いて、道の先を指差した。民家の石垣に沿って少しだけ曲がる道。横に畑があって、その奥に見慣れた鳥居があった。

 いつも自転車で神社に行く道の、畦道に切り替わる部分だ。

「そこ?」

「悪いか」

「ううん、悪くないよ」

 少女はそう言って、近くにあった段差に腰を下ろした。

「千冬が決めたなら、そこが今日の場所だね」

「責任重いな」

「大丈夫。失敗しても私しか見ないし」

 少女は声を弾ませた。俺はその言葉を聞いてふと疑問に思う。彼女は俺に絵を描いてほしいと言った割には絵が欲しいとか、どこかに飾って欲しいとかそういうことは一度も言ったことがない。いつもスケッチブックは俺が持ち帰って、また島に来て新しいページを開いて、描く。その繰り返しだ。

「……なぁ、絵は欲しくないのか?」

「うーん、いらないかな」

「えぇ」

 あっけらかんと言ったその言葉に少し胸がちくりとしたが、すぐに少女は慌てて訂正する。

「あ、違う違う、いらないとかそういう意味じゃなくて」

 それから、言葉を選ぶように「うーん」と唸ってから口を開いた。

「私は絵が欲しいんじゃなくて、描いてほしいんだ」

 小さくつぶやいたが、それははっきりと耳に届いた。そして付け足すように「それが私の取引だから」と言っていつもの調子で口の端を上げた。

「……わかった」

「うん、わかってくれてよかった」

 満足げに微笑んで足をぶらぶらと揺らしている少女を横目に、俺は道の端に寄り、スケッチブックを開いた。

 まず、道の線を引いた。細く、少し曲がった道。絵から目を離してよく見ると小さな石が転がっていて、土もところどころについている。

 次に石垣を描く。石は一つ一つ形が違っていて、雑に線を引くとただの壁になる。けれど、細かく描きすぎると、そこだけが目立ってしまう。案外、難しい。

「いつもここ通って来てるの?」

「そうだな」

「ふーん、そっか。じゃあこの道もう慣れた?」

「まぁ、何回も通ってたらな」

 そう自分で言ってハッと気がついた。初めてこの道を通った時は、よくわからない道でただ神社へ続く道、という認識だった。だが、今こうして見ると、印象が違って見える。

 ここに住んでいる色んな人が、さまざまな形で生活の一部としてここを通ったはずだ。

 この土も、隣の畑のもので作業をする際についたものなのかもしれない。

 もう一度、手元に視線を戻す。電柱を細く置き、庭先の洗濯物を白い形として残す。民家の窓は大きく描かず、奥に鳥居を描いた。

 どれも主役というほどではない。

 けれど、どれか一つを省くと、この道が別の場所になってしまう気がした。

「こういう場所ってさ」

「うん」

「観光客はあんまり立ち止まらないだろうな」

「たぶんね」

「俺も、最初に来た日なら通り過ぎてたと思う」

「今は?」

「……止まってる」

「うん」少女は満足そうに頷いた。

「それでいいんじゃない?」

「いいのか?」

「通り過ぎなかったんでしょ」

 簡単な言い方だった。でも、その言葉は少しだけ胸に残った。

 通り過ぎなかった。

 ただそれだけのことなのに、今の俺には妙に大事なことのように思えた。

 水筆を取り出す。

 畑の土に薄い茶色を置き、石垣には灰色を重ねる。アスファルトに落ちた影は、濃くしすぎないようにした。夏の影は確かに濃いが、この道全体を暗くしたいわけではなかった。

 道の脇に置いてある鉢植えには、小さく赤を入れる。

 その赤は、本当に小さな点だった。

 けれど、紙の中に置いた瞬間、そこに誰かの手が入っているように見えた。

「花、描くんだ」少女が言った。

「目についたからな」

「綺麗だから?」

「それもあるけど」

 俺は少し考える。

「誰かが置いたんだろ、それ」

「うん」

「勝手に生えたわけじゃなくて、誰かが水をやって、置く場所を決めて、たぶん枯れたら片づける」

「うん」

「そういうのって、描かないと消えそうな気がした」

 言ってから、自分で少し恥ずかしくなる。大げさだったかもしれない。

 けれど少女は笑わなかった。

 石垣に腰掛けたまま、その赤い花をじっと見ていた。

「……そういうの、いいね」

「花が?」

「今の千冬の見方」

「何だそれ」

「なんでもない」

 少女は口元をわずかに緩めた。からかうような笑い方ではなかった。どこか、安心したような顔だった。

 俺は返す言葉を探したが、結局何も言わずに筆を動かした。

 細い道。低い石垣。庭先の花。白い洗濯物。畑の土。民家の影。

 一見全部ばらばらに見えるそれらは、描いているうちに少しずつ同じ場所の中に収まっていく。

 この道を誰かが歩く。

 畑から戻ってくるのかもしれない。

 山から帰ってくるのかもしれない。

 もしくは、神社に行くために通るのかもしれない。

 そういう姿は今ここにはない。

 でも、そういう人たちが通っていたから、この道は道になっている。

「鬼ヶ島って呼ばれる島にも、こういう道があるんだよな」

 ふと、そんな言葉が出た。少女は少しだけ顔を上げた。

「あるよ」

「当たり前なんだけどさ」

「うん」

「洞窟とか、鬼の人形とか見てると、なんか見落とす気がする」

 俺は筆を止めずに続ける。

「ここって、普通に人が住んでる島なんだよな」

 少女はすぐには答えなかった。洗濯物が風に揺れる。遠くで、誰かの話し声が短く聞こえた。

「うん」

 少し遅れて、少女は頷いた。

「人が住んでた場所だよ」

 その言い方が、少しだけ耳に引っかかった。住んでいる、ではなく。住んでた。

「今も住んでるだろ」

「うん。今も」

 少女は曖昧に笑って、道の奥を見た。そこには古い民家があり、軒先の影が濃く落ちていた。

「やっぱり、この島についても何か知ってるんだろ」

「……何を?」

「いや、あの絵に『女木島へ』って書いてた意味を」

「それは、千冬が全部の絵を描いてからだよ」

「そうだけどさ」

 少女は少しだけ目を細めた。

 いつもならそこでもう一言返してくるはずなのに、その日はそれ以上何も言わなかった。

 俺も、それ以上は聞かなかった。

 この道の静けさには、大きな声が似合わない気がした。

 最後に、道の奥を少しだけ暗くする。

 全部を明るく描くと、ただの夏の道になる。

 でも、ここにはもう少しだけ、時間が積もっているように見えた。

 誰かが暮らして、通って、帰ってきた時間。

 そういうものが、石垣の隙間や、畑の土や、民家の影に残っている気がした。

「できた」

 そう言って顔を上げる。

 少女はすぐには近づいてこなかった。

 段差の上に座ったまま、鳥居の方を見ている。

「見ないのか?」

「見る」

 そう答えて、少女はゆっくりと立ち上がった。

 いつもより少しだけ動きが遅い。

 いや、気のせいかもしれない。

 けれど、その足取りは、昨日までよりも軽くは見えなかった。

 少女は俺の隣にしゃがみ、スケッチブックを覗き込む。

 紙の上の細い道を、目でゆっくり追っていく。

「……どうだ?」

「うん」

「うん、じゃわからないんだけど」

「いいと思う」

「雑だな」

「雑じゃないよ」

 少女は紙から目を離さずに言った。

「帰ってくる場所に見える」

 その言葉で、昨日の会話を思い出した。

 誰かが、帰ってくる場所。

 描いている時は意識していなかった。

 けれど、言われてみると、紙の中の道はただ遠くへ繋がる道のようには見えなかった。

「……褒めてるんだよな」

「褒めてるよ」

「ならいいけど」

 少女は小さく頷いた。

 その横顔は、少しだけ疲れているように見えた。

「大丈夫か?」

「何が?」

「いや、今日ちょっと静かだから」

「そう?」

「そう」

「暑いからかな」

「お前、暑さとか関係なさそうだけど」

「失礼だなぁ」

 少女はそう言って笑った。けれど、その声はいつもより少し小さかった。

 俺はスケッチブックを見下ろす。初日に描いた絵から数えれば、これで六枚目。

「あと二枚か」

 口にすると、思っていたよりもその言葉は重く感じた。

 あと二枚。それを描けば、取引は終わる。

 俺は言われた通りに絵を描いて、彼女はあの赤い女木島の絵について知っていることを話す。

 少女は絵を見たまま、しばらく黙っていた。風が吹き、スカートの裾が揺れる。

「……そうだね」少女は小さく言った。

「あと二枚」

「約束だからな」

「うん。約束」

 少女はゆっくり立ち上がった。その表情はいつも通りに見えた。そして、いつも通りに二人で神社の鳥居の下まで歩いて、俺は自転車の鍵を外す。

 でも、なぜかその「いつも通り」が少しだけ無理をしているようにも見えた。

「明日も、ちゃんと来てね」

「来るよ。ここまで来たらな」

「うん」

 少女は道の奥へ視線を向けた。

「じゃあね」と言ったその声はどこか遠かった。

 俺は何かを言いかけて、やめた。自転車に跨ってペダルを漕ぐ。途中で振り返ると手を振る少女の輪郭が少しぼやけたような気がした。

 そういう、気がしただけだ。

 多分、夏の暑さのせいだ。

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