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笑った女鬼の島  作者: アコウ丸


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24話 赤い島

「なぁ」坂道の途中で、俺は足を止めた。

「この島に、平らな道って存在するのか?」

 前を歩く少女は振り返り、いたずらっぽく口角を上げた。

「あるよ」

「本当か?」

「たぶん」

「たぶんって言ったな、今」

 少女は答えず、また軽い足取りで坂を上っていく。

 俺は額の汗を拭いながら、その後を追った。五日目にもなれば少しは慣れるかと思っていたが、慣れたのはフェリーの乗り方と神社までの道順くらいで、坂道に対する体力は一向についていない。

 今日はタカト山に行く、と少女は言った。

「しかし、タカト山って聞くからに嫌な響きだな」

「大丈夫、そんなに高くないから」

「そう言ってもう二十分は登っている気がするんだが」

「えー?そうかな」

 前を歩く少女は、相変わらず息ひとつ乱さない。「お前、本当に疲れないよな」と言いかけて、ふと思ったことを口にする。

「そろそろ名前、教えてくれないか」

 少女の足が、少しだけ止まった。けれどすぐに、何事もなかったみたいにまた歩き出す。「名前?」「あぁ。俺はもう教えただろ。千冬って」「うん。千冬」「だから、お前の名前も」 そう言うと、少女は振り返らないまま、少しだけ首を傾けた。「鬼」「…………は?」「鬼」「いや、それは名前じゃないだろ」「この島では、そういう呼び方の方が有名かなって」「有名とかそういう話じゃなくて、お前の名前を聞いてるんだよ」「私の名前かぁ」少女はわざとらしく考えるように空を見上げた。「知りたい?」「そりゃ知りたいから聞いてるんだろ」「じゃあ、あとで」「あとでっていつだよ」「取引が終わったら」「名前まで取引に入るのかよ」「大事な情報だからね」「絶対適当に言ってるだろ」 少女はそこで振り返り、悪戯っぽく目を細めた。「じゃあ、千冬は何て呼びたいの?」「何てって……」「ほら。名前がなくても、呼べるでしょ」「呼べるけど、ずっとお前はいやだろ」「私は結構気に入ってるけどな。千冬の『お前』」「雑すぎるだろ」「千冬っぽいよ」「俺っぽいで済ませるな」 少女は肩を小さく揺らした。笑っているのだと、少し遅れてわかった。「まあ、どうしても名前が必要なら、鬼でいいよ」「呼ぶか」「えー。似合うのに」「自分で言うな」 少女はまた前を向き、軽い足取りで坂を上っていく。 結局、名前はわからないままだった。 ただ、今のは忘れたから答えられないというより、最初から答えるつもりがないように見えた。 俺はその背中を見ながら、さっきの一言を思い出す。 鬼。

 冗談みたいに言ったくせに、妙に耳に残る響きだと、そう思った瞬間に彼女の影が少し薄くなったような気がした


 

「もうすぐだよ」

「やっとか」

 俺は大きなため息をついて立ち止まる。ふと少女を見ると息一つ切らしていない、

「体力バケモンすぎるだろ」

「千冬が疲れすぎなんだよ」

「普通は疲れる」

「普通がどれかわかんないもん」

「なんか前も言ってたな、それ」

 そう言うと、少女は振り返らずに、肩だけを小さく揺らした。奥にひらけた空間がある。おそらくあそこから景色を見渡せるのだろう。

 周りを見渡すと、木々の間から、ときどき海が見える。

 足を前に踏み出すたびに空が少し近くなる。足元の草が乾いた音を立て、汗が顎の先から落ちた。

 そして何歩か行ったところでふいに視界が開けた。

 そこから見えたのは、女木島全体ではなかった。

 足元のすぐ下に、青い海が広がっている。

 その向こうに、高松の街並みがあった。白く霞んだシンボルタワー。太陽を反射して畏怖アリーナの屋根。遠くに見える山と街に、海の上に引かれた光の筋。

 女木島にいるはずなのに、目の前にあるのは高松だった。

 海を挟んだ向こう側。

 何度も行き来していたはずの場所が、急に遠く見えた。

「……すごいな」

 思わず声が漏れる。神社から見下ろした海とも違う。

 海辺広場から見た海とも違う。ここからの海は、足元からそのまま高松へ広がっていくように見えた。

「描く?」

 少女が隣で聞いた。

「そのために来たんだろ」

「うん」

 俺はタカト山と書かれた木でできた看板の近くに鞄を下ろし、スケッチブックを取り出した。

 今日は、何を描くかで迷わなかった。

 真下の海。その向こうの高松。海の上に伸びる光。

 描くものは、最初からそこにあった。

「今日は早いね」

「描くものが決まってるからな」

「珍しい」

「おかげさまで見る目が育ったんだよ」

 俺は鉛筆を紙に置く。

 まず、海の広がりを薄く取った。真横に一本線を引くのではなく、足元から向こうへ伸びていくように、少しだけ奥行きをつける。

 高松の街並みは細かく描きすぎない。ビルの形を一つ一つ写す必要はない気がした。はっきり描きすぎると、近くなりすぎる。

 高松は見えている。

 でも、ここから見ると遠い。

 フェリーに乗ればすぐなのに、海を挟むだけで、いつもの街が知らない場所みたいに見える。

 その時、鞄の中のあの絵のことを思い出した。

 赤く塗られた女木島。高松側から見た、あの島の絵。

 俺は今、女木島から高松を見ている。

 あの絵を描いた祖父は、その逆から女木島を見ていた。

 そう思った瞬間、鉛筆の動きが少しだけ鈍った。

「どうしたの?」

「いや」

 俺は対岸の街を見たまま答えた。

「あの絵のこと、思い出した」

「あの絵?」

「前に見せただろ。赤い女木島の絵」

「ああ」

 少女の声が、少しだけ静かになった気がした。

「ここからだと、高松が向こう側に見えるだろ」

「うん」

「でも、あの絵は逆なんだよな。向こう側から、こっちを見てる」

 少女は何も言わなかった。

 俺は紙の上に視線を戻す。

 まだ途中の下書きと、高松の街。そこに、祖父の描いた赤い女木島が重なったように思えた。

 向こうから見た島。

 こちらから見た街。

 同じ海を挟んでいるのに、立つ場所が違うだけで、こんなにも見え方が変わる。

「おじい……いや、あの絵を描いた人はさ」

「うん」

「何を見てたんだろうな」少女は、少しだけ首を傾けた。

「女木島じゃないの?」

「それはそうなんだけど」

「じゃあ、何?」

「わからない」

 俺は鉛筆の先を止めたまま、対岸を見る。

「ただ島を見てたなら、あんな赤にはならない気がする」

「赤」

「普通、島を描くなら緑とか、青とか、白とかだろ。少なくとも、見たままなら」

「うん」

「でも、あの絵は赤かった」

 少女は黙っていた。

 風が吹き、草の先が膝に触れる。

「なぁ」

「ん?」

「お前、あの絵について何か知ってるんだよな」

 少女はすぐには答えなかった。

 海の向こうにある高松の街を見つめたまま、何かを考えているようだった。

「……取引で、俺が絵を描く。その代わりに、お前はあの絵のことを話す。そういう約束だっただろ」

「うん」

「今日で五枚目だ」

「うん」

「あと二枚描いたら、本当に話してくれるんだよな」

 少女はようやく俺を見た。

 その顔に、いつものからかうような笑みはなかった。

「話すよ」

「本当に?」

「約束したから」

 短い言葉だった。

 けれど、不思議と嘘には聞こえなかった。

 俺は少しだけ息を吐き、もう一度スケッチブックを見る。

「じゃあ、今はまだ教えないのか」

「うん」

「ケチだな」

「取引だからね」

「そっちが言うな」

 少女の目尻が少し下がった。笑っているようにも、困っているようにも見えた。

「でも、一つだけ」

「一つだけ?」

「見たままの色じゃなくても、嘘とは限らないんじゃないかな」

「……どういう意味だよ」

「そのままの意味」

 少女はそう言って、海の方へ視線を戻した。俺はその横顔を見る。

 もっと聞きたいことはいくらでもあった。

 赤い女木島。

 嶽山からの絵。

 裏に書かれていた言葉。

 祖父が何を見て、なぜあの絵を残したのか。

 けれど、少女はもうそれ以上話すつもりがないようだった。

 俺は諦めて、鉛筆を置いて水筆を取り出す。

 真下の海には少し濃い青を置き、向こうへ行くほど淡くする。高松の街並みは、灰色を混ぜた薄い色でぼかした。

 はっきり描きすぎない。

 近いのに遠い、その距離だけが残るように。

「今日は街を描くの?」

 少女が聞いた。

「街も描く」

「海は?」

「海も描く」

「欲張りだ」

「どっちかだけだと違うんだよ」

 俺は筆を動かしながら答えた。

 街だけなら、ただの対岸になる。海だけなら、ただの景色になる。でも、この場所から見ると、その二つの間にある距離が妙に気になった。

 紙の上に青を置くたびに、祖父の赤い女木島のことが頭を離れなくなる。

 あの人は、向こう側から島を見ていた。

 女木島を、すぐ近くの場所として見ていたのか。

 遠い場所として見ていたのか。

 それとも、もっと別の何かとして見ていたのか。

 俺にはまだわからない。

 けれど、最初に見た時のように、ただ不気味な絵だとは思えなくなっていた。

 あの赤は、見たままの色ではなかったのかもしれない。

 なら、あの人は何を見て、あの色を置いたのだろう。

 そんなことを考えながら、海の上に細い光を残す。塗りつぶさず、紙の白を少しだけ残した。その白が、高松へ続く線のように見えた。

「できた」

 そう言って筆を置く。

 少女はすぐには覗き込まず、まず実際の景色を見た。

 それから、ゆっくりとスケッチブックへ視線を落とす。

「……どうだ?」

「今日は早かったけど、予想以上に上出来じゃん」

「なんだよそれ。じゃあ予想はどうだったんだよ」

「描けばいいものがわからないーって私に泣きつくのかと思った」

「仮にも美術科なんだからそんなことしねぇよ」

「そんなのわからないじゃん」

 少女は笑いながら紙の上の海を、指でなぞるように宙で追った。

「向こうまで、ちゃんと遠い」

「褒めてるのか?」

「褒めてるよ」

「遠いって褒め言葉なのか?」

「この絵では、たぶん」

 少女はそう言って、目を細めた。

 俺は自分の描いた絵を見る。高松の街は、思ったより小さくなっていた。

 海は広い。

 けれど、ただ広いだけではない。

 向こう側へ行けるはずなのに、すぐには届かない距離として、紙の上に残っている。

「これで五枚目だな」

「うん。五枚目」

「あと三枚」

 口にした瞬間、風が少し強く吹いた。汗ばんだ肌を撫でて一瞬冷たく感じた。草が揺れ、少女の髪が頬にかかる。彼女はそれを押さえるようにして、海の向こうを見た。

「あと二枚だね」

 声は、いつもより少しだけ小さかった。

「……本当に話せよ」

「話すよ」

「逃げるなよ」

「逃げないよ」

 少女はそう言って、こちらを見た。その笑みは薄かったが、今までよりも真剣に見えた。

「約束だから」

 その言葉に、俺は何も言えなくなった。

 約束。

 取引。

 最初は、それだけだった。

 絵を描く代わりに、あの絵の真実を教えてもらう。

 だから俺はこの島に来ている。

 そのはずなのに、五枚目の絵を前にすると、その言い方に少しだけ胸の奥がキュッとしまったような感覚がした。

「明日は、集落の方を歩こう」

 少女が言った。

「集落?」

「うん。細い道とか、石垣とか、畑とか」

「また地味な場所だな」

「地味じゃないよ」

「……静かな場所だな」

「うん。誰かにとっては帰る場所」

 少女はそう言って、立ち上がった。風に揺れる髪の向こうで、高松の街並みが白く霞んでいる。

 俺は乾ききっていない絵を見下ろした。紙の上には、真下の海と、その向こうにある街があった。

 近いはずなのに、遠い。

 遠いはずなのに、確かに見えている。

 そう思った頭の中には、赤い女木島の絵がしばらく漂うように残っていた。

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