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笑った女鬼の島  作者: アコウ丸


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23話 静けさ

 昨日の岩は、最初はただの岩に見えた。でも、伝承を聞いて、小銭や石積みまで見えるようになった。

 なら、この港にも何か話があるのだろうか。

 そう思って少女の方を見ると、彼女は防波堤の上に立ち、海ではなく、港の内側を見ていた。

「ここにも、何か言い伝えがあるのか?」

「言い伝え?」

「姫の霊が眠ってるとか、そういうやつ」

「ううん。たぶん、ないんじゃないかな」

「まぁそりゃあそうか」

「ないと描けない?」

「……いや」

 少女は防波堤から軽く飛び降りると、古いロープのそばにしゃがみ込んだ。

「ここは、普通の場所だよ」

「普通?」

「うん。船を置いたり、網を直したり、海を見たりする場所」

「それだけ?」

「それだけ」

 少女はロープに触れるわけでもなく、ただ見つめていた。

「でも、そういう場所がないと、島で暮らせないでしょ」

 その言葉に、俺は港を見直す。

 フェリーが着く港は、外から来る人のための場所に見えた。

 切符を買って、船を降りて、看板を見て、目的地へ向かう。観光客にとっての入口。

 けれど、ここは違う。

 誰かを迎えるためというより、島の人が島の中で生きるための場所に見えた。

 錆びた金具も、色の抜けたロープも、古い船も。

 さっきまで地味だと思っていたものが、少しずつ違う意味を持ち始める。

「……こういうところって、SNSにはあんまり上がらないだろうな」

 ぽつりと呟くと、少女がこちらを見た。

「えすえぬえす?」

「あー……写真とか動画を載せるやつ」

「みんなに見せるの?」

「まあ、そんな感じ」

「ふーん」

 少女はよくわかっていないような顔で頷いた。

「あっちの港にも、海とか建物とか撮ってる人いただろ」

「うん」

「ああいうのは、たぶん載せやすいんだよ。女木島に来ました、海が綺麗です、夏です、みたいな感じで」

「それは駄目なの?」

「駄目ではないけど」

 俺は鉛筆の先で、スケッチブックの端を軽く叩いた。

「なんか、撮って終わりって感じがする」

「終わり?」

「撮ったら、それで見たことになるというか。綺麗なところだけ切り取って、あとは次に流れていく感じ」

 口にしてから、少しだけ自分の言葉が嫌になった。

 まるで他人だけを責めているみたいだった。

 俺だって、最初に女木島へ来た時はそうだった。

 港を見て、海水浴場を見て、鬼の人形を見て、洞窟のパネルを読んで、それで女木島を見た気になっていた。

 祖父の絵がなければ、たぶん写真を何枚か撮って帰って、それで終わっていた。

「……でも、俺も同じか」

「同じ?」

「最初は、わかりやすいものしか見てなかった気がする」

 少女は何も言わなかった。

 ただ、防波堤に腰掛けて、足を小さく揺らしている。

「鬼ヶ島とか、海水浴場とか、瀬戸芸とか。そういう名前がついてるものだけ見て、それでこの島を見たつもりになってた」

「今は?」

「今は……」

 俺は港を見た。

 小さな鳥居。

 古い民家。

 崩れかけた空き家。

 防波堤の内側で揺れる水面。

 観光客のいない港。

「まだ、見たつもりにもなれてない」

 そう言うと、少女の目尻が少しだけ下がった。

「それでいいんじゃない?」

「いいのか?」

「うん。見たつもりにならない方が、ちゃんと見られる気がする」

 少女の声は、いつもより少し静かだった。

 俺は返事をせずに、鉛筆を紙の上に置いた。

 まず、防波堤の線を引く。正方形に近い形で海を囲むその線は、思ったよりも単純だった。けれど、その内側にある水面は、外の海よりもずっと穏やかに揺れている。

 港の外では波が光を弾いているのに、内側の水は少し暗い。同じ海なのに、防波堤を挟むだけで表情が変わる。

 端の方には古い民家の屋根。空き家の傾いた線。

 地面には岸壁に丸められたロープ。

 どれも目立たない。

 けれど、描かないとこの場所がただの港になってしまう気がした。

「今日は細かいね」

 少女が隣から覗き込んできた。

「地味なものが多いからな」

「地味って言うんだ」

「他に言い方あるか?」

「静か、とか」

「また静かかよ」

「だって静かでしょ」

「まあ、静かだけど」

 俺は苦笑しながら、岸壁の影を薄く入れた。

 昨日の岩の静けさとは違う。

 あの石の静けさは、山の中に閉じられた静けさだった。

 この港の静けさは、海に開いているのに誰もいない静けさだ。

 水筆に薄い青を含ませる。外の海は少し明るく、港の内側は少し暗くする。防波堤の影が落ちるところには、灰色を混ぜた。

 その時、少女がぽつりと言った。

「ここ、昔はもう少し人がいた気がする」

 俺は筆を止めた。

「昔?」

「うん」

「来たことあるのか?」

「……あるような気がするだけ」

 少女は曖昧に笑って、視線を海へ逃がした。

「気がするだけって」

「いいでしょ」

「便利な言葉だな」

「便利だよ」

 少女はそう言って、何でもないことのように笑った。

 けれど、その目は港のそばにある古い民家の方を見ていた。

「昔って、いつの話だよ」

「さあ」

「本当に知らないのか?」

「知らないよ」

 少女は少し遅れてこちらを見た。

「でも、誰かがここにいたってことは、わかるでしょ」

 俺は何も言えなかった。

 ロープ。

 船。

 鳥居。

 空き家。

 ひびの入った岸壁。

 そこに人の姿はない。

 けれど、人がいなければ残らないものばかりだった。

 俺はもう一度筆を動かす。

 空き家の線を、少しだけ丁寧に描き足した。

 崩れかかった壁も、傾いた屋根も、最初は描くつもりがなかった。

 でも、それを省くと、この港の静けさがただの綺麗な風景になってしまう気がした。

 綺麗なものだけを残すなら、写真でもいい。

 けれど俺が今描いているのは、たぶんそれだけではなかった。

 誰かが使っていたもの。

 誰かが置いていったもの。

 誰かがいなくなったあとも、まだそこに残っているもの。

 そういうものを、見なかったことにしないために描いている、そんな気がした。

「できた」

 最後に、港の内側の水面へ薄く色を重ねてから顔を上げる。

 少女は待っていたように近づいてきたが、今日はすぐには身を乗り出さなかった。

 少し離れたところから、まず港全体を見て、それから俺のスケッチブックへ視線を落とした。

「見ないのか?」

「見るよ」

 そう言って、少女は隣にしゃがみ込んだ。

 紙の上の港を、ゆっくり目で追っていく。

 防波堤。

 古い民家。

 崩れかけた空き家。

 丸められたロープ。

 外海よりも少し暗く揺れる港の水。

「……地味だな」

 俺が先に言うと、少女は口元をわずかに緩めた。

「うん。地味」

「そこは否定しろよ」

「でも、いい絵だよ」

「本当か?」

「うん」

 少女は紙から目を離さないまま頷いた。

「人がいないのに、人がいた感じがする」

 その一言に、胸の奥が少しだけざわついた。褒められたから、というより自分が描こうとしていたものを先に言われたような気がしたからだ。

「……それ、ちゃんと見えてるってことか?」

 俺が冗談めかして聞くと、少女は目だけで笑った。

「今日は自分で言うんだ」

「いや、毎回言われるから」

「じゃあ、今日は半分だけ」

「半分?」

「まだ見えてないところもあるから」

「なんだよ、それ」

「ちゃんと見たら、わかるかも」

「結局いつものやつじゃねえか」

 少女は肩を小さく揺らした。

 港の外で波が防波堤に当たり、白く砕ける。その音が、しばらく二人の間に残った。

「これで四枚目」

 少女が小さく言った。

「ああ。あと四枚だな」

 今度は、少女の表情を見逃さないようにした。

 けれど彼女は、昨日のようにわかりやすく黙ったりはしなかった。

 ただ、紙の上の港を見つめたまま、静かに頷いた。

「あと三枚」

 繰り返した声は、波の音に少しだけ紛れた。

「明日はどこ行くんだ?」

「山」

「また山かよ」

「でも、今日とは違う山」

「どう違うんだよ」

「上から見る山」

 少女は立ち上がり、港の向こうに見える緑の斜面を指差した。

「女木島を、上から見るの」

「……それ、また歩くやつだろ」

「うん」

「即答するな」

 少女はいたずらが成功したみたいに、目を細めた。

「大丈夫。千冬も少しずつ慣れてきたでしょ」

「慣れたくないものにも慣れてきたよ」

「いいことだね」

「よくない」

 俺はスケッチブックを閉じないように注意しながら、立ち上がった。

 港には、やはり誰もいなかった。

 けれど、来た時ほど空っぽには見えなかった。

 小さな鳥居も、古いロープも、崩れかけた空き家も。

 そこに人の姿はないのに、何かがまだ残っている。

 そんな気がした。

 帰り道、少女はいつもより少しだけ口数が少なかった。

 俺も、それを指摘しなかった。

 ただ、港の静けさが、まだ耳の奥に残っていた。

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