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笑った女鬼の島  作者: アコウ丸


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22話 もう一つの港

 四日目にもなると、乗船券を手に入れてフェリーに乗り込むまでの一連の流れにも身体が馴染んできていた。

 窓口で切符を買い、フェリー乗り場で立って待つと赤いストライプ模様の船体が近づいてくるのが目に入る。初日にはどこか特別に思えたその所作も、今ではすっかり決まった手順のようになっている。

 馴染むというのは、案外早いものだ。

 数日前まで地図を睨みながら走っていた島の道も、もう完全な見知らぬ場所ではなくなっていた。

 しかし、何度見ても、あの赤に彩られた女木島の絵は見慣れない。船が波を切る音を聞きながら、俺はその絵が挟まったクリアファイルをぼんやりと眺めていた。

 気がつけば船は女木島の港に滑り込んでいた。素早く鞄の中にそれをしまい、下船の準備をする。

 フェリーを降りると、観光客たちは今日も同じようにそれぞれの目的地へ散っていった。鬼ヶ島洞窟へ向かう者。海水浴場の方へ歩く家族連れ。スマホを構えて、港を熱心に撮影している人。

 俺はそんな賑わいを横目に見ながら、自転車に跨った。

 写真を撮れば一瞬で残る。

 昨日、自分でそう言った。

 けれど、今日も俺はスマホではなく、鞄の中のスケッチブックの重さを意識している。

 路地を抜け、畦道を走り、鳥居の前で自転車を降りる。石段を上がると、少女はいつものように拝殿前の段差に腰掛けていた。

「あ、来た」

 少女は俺に気づくと、ひらひらと手を振った。

 白いTシャツも、紺色のスカートも、赤みがかった髪も、昨日と何も変わらない。

「……なんか、今日は来るの遅くない?」

「昨日と変わらないと思うけど」

「そうかな」

「昨日の山道の疲れが残ってるんだよ」

「運動不足だもんね」

「変な道行くせいだろ」

 少女が口の端を持ち上げて俺の顔を覗き込んできたので、思わず目を逸らす。

「それで、今日は港だったよな」

「うん」

「どうやって行くんだ?」

「歩いて、歩いて、あとは歩く」

「それ全部歩きなんだよ」

「大丈夫。今日は昨日ほど山道は行かないから」

「その言い方がもう信用できない」

「ひどいなぁ」

 少女はそう言って立ち上がり、石段を下り始めた。俺もその後を追うと、少女は海とは反対の方へ視線を向けていた。

「反対側の港って、人があんまり来ないんだよな?」

「うん。観光客は、たぶんほとんど行かないと思う」

 俺は「へえ」と単調な相槌を打ってふと聞いてみる。

「ちなみに、そこを描く理由は?」

 そう聞くと、少女は少しだけ振り返った。

「人が来ない場所にも、島はあるから」

 それだけ言って、少女はいつものように歩き出した。

 昨日の俵石も、最初はただの無骨な岩にしか見えなかった。けれど、描き終わる頃には、そこに置かれた小銭や積まれた石まで無視できなくなっていた。

「ちゃんと見ないとね」という言葉が頭の中で響いた。ちゃんと見ることが大事なら、今日向かうという人の少ない港にも、俺がまだ見落としている何かがあるのだろうか。

 そんな風に思考を巡らせていると、洞窟に行った時に通った道へと彼女の足が向いた。

「やっぱり山道じゃねえか」

「ほら置いて行くよー」

 平然と、当たり前のように進んでいく後ろ姿に、初めて島に来た時のことを思い出した。

 ——

 二十分ほど坂を上り下りして歩くと、不意にY字路の分岐に差し掛かり、それと同時に視界が一面の海で満たされた。

 山の土と草の匂いが引き、代わりに正面から柔らかな潮の香りが風に乗って漂ってくる。

「港ってあれか?」

 目の前に広がる、正方形の防波堤に囲まれた場所を指差す。

「うん。あそこ」

 そう言って、分岐した道を下って行く。数分も歩けば、砂浜と寂れた港へとたどり着いた。

 いつもフェリーが発着する側の港とは違って、人のざわめきも、観光地らしい建物も見当たらない。あるのは神社だろうか、小さな鳥居と拝殿、そして古い造りの民家と、崩れかかった空き家。

「……なんか、あっちの港とは正反対だな」

「そうかもね。観光客もいないし」

 周りを見渡しても、俺たち以外の気配はない。それ以上に、まるで世界から取り残されたかのように静まり返っていた。

 波が防波堤の内側に入り込み、ゆっくりと岸壁を叩いている。決して大きな音ではない。けれど、あまりの静寂のせいで、その規則正しい水音だけがやけにはっきりと鼓膜に届いた。

 港の隅には、色の抜けたロープが丸められている。錆び付いた金具。ひびの入ったコンクリート。使われているのかすら定かではない小さな船。

 どれも、わざわざ写真に収めるようなものではなかった。

 少なくとも、港に着いてすぐスマホを構えていたあの観光客たちなら、きっとここにはレンズを向けないだろう。

「ここ、描くのか?」

「うん」

 少女は当然のように頷いた。

 俺はもう一度、視線を巡らせる。

 青い海がある。空もある。防波堤もある。けれど、海水浴場のような賑やかさはないし、鬼ヶ島洞窟のようなわかりやすい看板もない。

 そこにあるのは、ただ沈黙した港だった。

「正直、どこを描けばいいのかわからないんだけど」

「難しい?」

「難しいっていうか……地味だろ」

「地味?」

「いや、悪い意味じゃなくて。写真映えする感じではないというか」

 言ってから、少しだけ言葉に詰まった。

 写真映え。

 自分で口にしておいて、妙に薄っぺらい言葉に聞こえた。

 少女は俺の顔を覗き込むようにして、口の端だけを持ち上げた。

「じゃあ、映えないものは描かないの?」

「そういうわけじゃない」

「じゃあ、いいじゃん」

「簡単に言うな」

「簡単だよ。ちゃんと見ればいいだけ」

「それが難しいんだよ」

 少女は声を弾ませて笑った。

 俺はため息をつきながら、防波堤の近くに腰を下ろす。

スケッチブックを開いて、鉛筆を持つ。

けれど、すぐには線を引けなかった。

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