21話 俵石
俺は鉛筆を持ち直し、紙の上に最初の線を置く。
大きな岩の輪郭をそのまま描こうとして、すぐに手が止まる。
丸いようで、丸くない。
ごつごつしているようで、ところどころ滑らかで、木漏れ日が当たっている部分だけが白く浮いて見える。
昨日の海とはまるで違う。動かないのに、描きにくい。
「岩って難しいな」
「また難しいって言ってる」
「難しいものは難しいんだよ」
「昨日は海が動くから難しいって言ってたのに」
「今日は動かないから難しい」
「わがままだなぁ」
少女は楽しそうに笑った。俺はその声を聞きながら、岩の輪郭を少しずつ追う。
ただ形を写すだけなら、たぶんそんなに難しくない。
でも、この場所の空気ごと描こうとすると、途端に何を描けばいいのかわからなくなる。
岩。
石段。
落ち葉。
木漏れ日。
小銭。
立て看板。
誰かが手を合わせたかもしれない場所。
そう思うと、目の前の岩はただの岩ではなくなっていった。
「なぁ」
「ん?」
「こういうのって、写真に撮ったらただの石に見えるんだろうな」
「そうかもね」
「でも、話を聞いてから見ると、ちょっと違って見える」
「じゃあ、ちゃんと見えてきたんじゃない?」
「またそれか」
「またそれだよ」
少女は当たり前みたいに笑う。
俺は反論しようとして、やめた。確かに、最初はただの石に見えていた。けれど今は、その周りにある落ち葉や小銭や、誰かが積んだ石まで、なんとなく無視できなくなっている。
全部が、この岩の一部のように見えた。
水筆を取り出す。今日は青ではなく、薄い灰色と茶色を混ぜるような色を作った。岩肌に影を置き、木漏れ日の当たるところは紙の白を残す。
葉の隙間から落ちる光は、はっきり描きすぎないようにした。強く描くと、そこだけが浮いてしまう気がしたからだ。
「昨日と全然色が違うね」
「場所が違うからな」
「うん。今日は静かな色」
「静かな色ってなんだよ」
「見たまま」
「説明になってない」
そう言いながらも、少しだけ納得してしまう。
確かに、この場所には大きな音がない。遠くの海水浴場の声も聞こえない。フェリーの汽笛も届かない。
あるのは、葉擦れの音と、時々聞こえる虫の声だけだった。
しばらく黙って描いていると、ふと少女が立ち上がった。
岩のそばまで歩いていき、木漏れ日の中に立つ。
その姿を見て、俺は手を止めた。
光の加減だろうか。
少女の輪郭が、一瞬だけ薄く見えた。
木漏れ日が彼女の体を通り抜けて、向こう側の岩肌に落ちているような気がした。
「……なあ」
「ん?」
少女が振り返る。
その瞬間には、もういつも通りだった。
赤みがかった髪も、紺色のスカートも、白いTシャツも、何も変わらない。
「どうしたの?」
「いや……なんでもない」
「変な千冬」
「うるさい」
俺は誤魔化すように視線をスケッチブックへ戻した。
暑さで目が眩んだのだろう。
そう思うことにした。
最後に、小さく積まれた石を描き足す。
最初は描くつもりがなかった。でも、描かないとこの場所の意味が少し欠けるような気がした。
小銭も、ほんの少しだけ線で置く。誰が置いたのかも、いつ置かれたのかもわからない。
それでも、ここに誰かが来たという痕跡だけは残っている。
「できた」
そう言って顔を上げると、少女はすぐに駆け寄って近づいてきた。
「見せて見せて」
「はいはい」
スケッチブックを少し傾ける。
少女は身を乗り出して、紙の上の岩をじっと見た。昨日のようにすぐ「いいね」とは言わなかった。
ただ、絵の中の石段と岩と小さな石積みを、順番に目で追っている。
「……どうだ?」
「うん」
「また、うんか」
「なんかね」少女は少しだけ考えてから言った。
「ただの石じゃない感じがする」
「それ、褒めてるのか?」
「褒めてるよ」
「ならいいけど」
描き終わった絵を見る。
確かに、最初に見た時よりも、そこにあるものが少しだけ増えた気がした。
いや、増えたわけではない。最初からあったのに、俺が見ていなかっただけなのだろう。
「伝承ってさ、本当かどうかはあまり関係ないのかもな」
俺はスケッチブックを見たまま言った。
「うん」
「誰かが残そうとしたから、残ってるのかもしれない」
そう言うと、少女は嬉しそうに目を細めた。
「今日は、ちゃんと見えたね」
「……少しだけな」
「少しだけでもいいよ」
少女はそう言って、岩の方を見た。木々の間から風が抜ける。積まれた小石が、かすかに影を落としていた。
「じゃあ、これで三枚目だな」
「うん。三枚目」
「あと五枚」
そう言った瞬間、少女は昨日と同じように、ほんの少しだけ黙った。
けれど今度は、すぐに笑わなかった。代わりに、岩の上に落ちた木漏れ日を見つめている。
「……何かあるのか?」
「何が?」
「あと何枚って言うと、毎回変な顔するだろ」
「そう?」
「そうだよ」
少女はしばらく黙っていた。
葉擦れの音だけが、その間を埋める。
「終わりが見えると、ちょっと変な感じがするだけ」
「終わり?」
「うん。約束の終わり」
少女はそれだけ言って、振り返った。岩を眺めるその表情は見えない。
「じゃあ、明日は港に行こう」
少しだけ間をおいてすぐにこちらに向き直った。
「港? いつもフェリーが停まってるところか?」
「ううん。島の反対側」
「反対側にも港あるのか」
「あるよ。人はあんまり来ないけど」
「……また変な道通るんじゃないだろうな」
「大丈夫。たぶん」
「たぶんをつけるな」
俺がそう言うと、少女はいつものように笑った。その笑い声に、少しだけ安心する。
元来た道を戻ろうと石段を下りた。枝と葉を踏む音に混じって、爽やかな緑と湿った香りが鼻をくすぐった。




