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笑った女鬼の島  作者: アコウ丸


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19話 海の道

 海と空の境目を探す。

 昨日、神社から見下ろした海は、遠くに広がる青い面のように見えた。けれど、ここから見る海は違う。波は絶えず揺れていて、日の光を受けるたびに、青とも白とも言えない色に変わる。

 一昨日までなら多分適当に一本線を引いていた。けれど今日はその一本をどこに置けばいいのか考えていた。

「描かないの?」

 隣から少女の声がした。

「描こうとはしてる」

「止まってるけど」

「海って、思ったより描きにくいんだよ」

「そうなの?」

「動くからな。形が決まってない」

 そう言うと、少女は防波堤の上に腰を下ろして、足をぶらぶらと揺らした。

「でも、ずっとあるよ」

「何が?」

「海」

 少女は当たり前のように言った。

「波は動いてるけど、海はずっとここにあるでしょ」

「……そう言われれば、そうか」

「じゃあ描けるよ」

「簡単に言うな」

 俺がため息をつくと、少女は楽しそうに笑った。

 もう一度海を見る。

 波の一つ一つを追うのはやめた。代わりに、全体の流れを探す。防波堤の下で小さく砕ける波。沖の方で鈍く光る海面。対岸に見える屋島の輪郭。その奥にある空。

 鉛筆を走らせる。

 最初の一本を引くと、少しだけ見え方が変わった。

 ただ眺めていた時には全部同じ海に見えたのに、紙に置こうとすると、手前と奥では色も形も違うことに気づく。

「昨日より真面目だね」

「昨日も真面目だっただろ」

「そうだっけ?」

「そうだよ。少なくとも、絵を描いてる時は」

「じゃあ、今も真面目な千冬先生だ」

「だから先生はやめろ」

 少女は口元を押さえて笑った。

 俺はその笑い声を聞きながら、海の線を薄く重ねる。対岸の屋島は細かく描きすぎないようにした。ここで見せたいのは屋島ではなく、そこまで続く水の広がりだと思ったからだ。

 ふと、昨日自分で言った言葉を思い出す。

 描き手が一番見せたいもの、残したいものを描く。

 なら、俺はいま、何を残そうとしているのだろうか。

「なぁ」

「んー?」

「海って、島の人からしたらどういう感じなんだ?」

「どういう感じ?」

「いや、俺からするとさ、海って向こうとこっちを分けてるものなんだよ。フェリーに乗らないと渡れないし、金もかかるし」

「うん」

「でも、島の人は違う見方をしてるのかなって」

 少女は少しだけ考えるように空を見上げた。俺もまた空を見上げてみる。雲はほとんどない。夏の空が、やけに広く見えた。

「私は、道みたいなものだと思う」

「道?」

「うん。海の道」

 少女はそう言って、海の方を指差した。

「あっちから来る人もいるし、こっちから行く人もいる。船があれば、海は道になるでしょ」

「まあ、船があればな」

「昔は、もっとそうだったんじゃないかな」

「昔?」

「今みたいに橋も車もない頃。海を渡らないと、どこにも行けなかった頃」

 少女の声はいつもより少し落ち着いていた。

 俺は鉛筆を止めて、彼女の横顔を見る。

「お前、やっぱりそういうの詳しいよな」

「そう?」

「普通、そんなこと考えないだろ」

「普通がどれかわかんないもん」

 少女は軽く笑った。

 けれど、その笑い方はどこか頼りなくて、いつものように俺を揶揄う時とは少し違っていた。

「……海ってさ」

 少女は続けた。

「怖いものでもあったと思うんだよね」

「怖い?」

「うん。穏やかな時は綺麗だけど、荒れたらすぐに変わるでしょ。船も人も、簡単に飲み込んじゃう」

「急に物騒だな」

「でも、それでも渡る人はいたんだよ」

 少女は海を見つめたまま言った。

「来たかった人も、帰りたかった人も、逃げたかった人も、追われていた人も」

 その言葉に、胸の奥が少しだけざわついた。

 かつてこの島にいたとされている鬼。または海賊。

 洞窟で見た人形や、パネルに書かれていた文字が頭をよぎる。

「……それ、鬼の話か?」

 俺がそう聞くと、少女はすぐには答えなかった。

 潮風が吹いて、彼女の髪を揺らす。赤みがかった髪の先が光を受けて、ほんの一瞬だけ透けるように見えた。

 目を凝らすと、もういつも通りだった。

「さあね」

 少女はいつもの調子に戻ったように、軽く肩をすくめた。

「ちゃんと見たら、わかるかも」

「またそれか」

「またそれだよ」

 少女は笑った。

 俺は返す言葉を探したが、結局何も言わずにスケッチブックへ視線を戻した。

 海を描く。

 高松と女木島の間にある海を。

 俺にとっては金を払って渡るもの。少女にとっては、道みたいなもの。誰かにとっては、渡らなければいけなかったもの。

 同じ海なのに、見る人によって意味が違う。

 そう思った途端、ただ青く塗ればいいものではなくなった。

 水筆に青を含ませる。最初は薄く、手前の水面に色を置く。乾く前に少しだけ色を足すと、紙の上で青が滲んだ。

「おー」

「まだ途中だぞ」

「でも、海っぽい」

「昨日も同じこと言ってなかったか?」

「だって本当にそう思ったんだもん」

 少女は膝を抱えて、俺の手元を覗き込んでいる。

「写真なら一瞬なのにな」

 ふと、そんな言葉が口から出た。

「え?」

「いや、これくらいの景色なら、スマホで撮れば一秒で済むだろ」

「それでも君はこの島に来てから一度も写真を撮ってないよね」

 少女に言われてハッと気づく。確かにそうだ。俺は何度もここをスマホで撮れば楽だし、SNSに上げれば綺麗だとか夏っぽいだとか、そんな反応がいくつも返ってくるかもしれない。

 しかし、一度もそれをしなかった。

「なんで、撮らないの?」

 少女は楽しそうに聞いてきた。

 俺は少し考える。

 なぜ撮らないのか。

 なぜ、わざわざ紙の上に線を引いて、色を乗せているのか。

「…………描けって言われたからだろ」

「それだけ?」

「それだけだよ」

「ふーん」

 少女は昨日と同じように、疑うでもからかうでもない顔で俺を見た。

 その目が少し苦手だった。

 言い訳が、全部見透かされているような気がする。

「まあ、写真じゃわからないこともあるしね」

「たとえば?」

「描いてる間に考えたこととか」

 少女は海を見た。

「何を描こうか迷ったこととか。どこを残そうかって悩んだこととか。そういうのは、写真にはあんまり写らないでしょ」

「……まぁ、そうかもな。写真家に失礼かもしれないけど」

 そう言うと、二人で一緒に小さく吹き出した。

 俺は再びスケッチブックに視線を戻して少しだけ濃い青を筆に含ませる。

 対岸へ向かうように、薄く色を伸ばした。

 写真なら、一瞬で済む景色だった。

 けれど描こうとすると、波の向きも、屋島の輪郭も、対岸の街の遠さも、全部が少しずつ違って見えた。

 もしかすると、描くというのは、あえて時間をかけることなのかもしれない。

 そんなことを考えながら、最後に空の色を薄く乗せた。

「できた」

 そう言って顔を上げると、少女は少しだけ身を乗り出した。

「見ていい?」

「そのために描かせてるんだろ」

「それもそうだね」

 少女は隣に座り、スケッチブックを覗き込んだ。

 昨日のように大げさに声を上げるかと思ったが、彼女はすぐには何も言わなかった。ただ、紙の上の海をじっと見ている。

「……何か言えよ」

「うん」

「うんって」

「いいね」

 少女は小さく言った。

「昨日の絵とは、全然違う」

「場所が違うからな」

「それもあるけど」

 少女は指先で、紙の上の海をなぞるように宙を動かした。

「昨日の海は、遠くにある海だった。でもこれは、渡れそうな海に見える」

「……そうか?」

「うん」

 少女は満足そうに頷いた。

「ちゃんと見えてる」

 その言葉に、少しだけ胸がくすぐられるような感覚がした。

 褒められているのかはわからない。けれど、昨日の「よく描けてる」よりも、その一言の方が妙に嬉しかった。

「じゃあ、これで二枚目だな」

「うん。二枚目」

「あと六枚か」

 昨日から数えて1週間。書かなければいけない枚数は昨日の文を入れると八枚だった。そう思って何気なく言うと、少女の表情がほんの少しだけ止まった。

 本当に一瞬だった。

 すぐにいつものように笑ったが、俺はその変化に気づいてしまった。

「……どうした?もしかして、一日一枚じゃ足りないとか言わないよな?」

「あはは、そんなこと言わないよ」

 少女は誤魔化すように笑って立ち上がり、防波堤を軽く降りた。

「じゃあ、明日は山に行こう」

「山?」

「うん。ちょっと変わった石があるんだよ」

「またこの前みたいに歩くのか?」

「大丈夫大丈夫。ちゃんと近道するから」

「その言葉、前にも聞いた気がするんだよな」

 俺がそう言うと、少女はケラケラと笑った。

 海水浴場の方から、誰かの笑い声が風に乗って届く。けれど、この小さな広場には、波の音と少女の笑い声だけが残っていた。

 俺は乾ききっていない絵を慎重に閉じないように持ち上げる。

 紙の上の海は、まだ少しだけ濡れていた。

 その青が、光を受けてかすかに揺れているように見えた。

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