18話 海浜広場
無機質なアラーム音で目が覚めた。
目を擦りながら、音の鳴るスマホに手を伸ばす。画面に表示された時刻は、ちょうど七時だった。アラームを止めて、むくりと上体を起こす。
さて、学校に行く準備をしよう。
そう思ってベッドから立ち上がろうとしたところで、ふと思い出した。
そういえば、今日から夏休みだ。
その事実に気づいた途端、体の奥から猛烈な眠気が戻ってきた。起こしたばかりの体をもう一度ベッドに倒し、冷房で冷えた部屋の中で布団を被り直す。
瞼がゆっくりと下がっていく。
少しだけ。
本当に、少しだけのつもりだった。
——
「やばいやばい」
ペダルを踏む足を弱めずに、港へ向かって風を切る。
結局、そのまま二度寝してしまった。次に目を覚まして時計を見た時、針は十一時半を指していた。
家から港まではおよそ二十分。十二時発のフェリーに乗るため、顔を洗って、台所に置いてあったパンと千円札を掴み取り、そのまま家を飛び出した。
出たのは十一時四十分。
パンを口の中で無理やり咀嚼しながら、切符を買う時間が残っているかを考える。昨日、少女に「また明日」と言われたからといって、何時に来いと指定されたわけではない。
それでも、なぜか遅れるわけにはいかない気がしていた。
港に着くと、急いで窓口に走り、切符を買う。すでに到着していたフェリーに乗り込んだところで、ようやく息を吐いた。
はぁはぁと乱れた息を整えながらスマホを見ると、時刻はちょうど十二時だった。
もう見慣れた女木島の港に降り立つ。
周りを見渡す必要もなく、自転車に跨った。まだ起きてから一時間も経っていないせいか、ペダルを漕ぐ足が重い。昨日と同じように路地を抜け、畦道を走る。
田んぼを挟んだ向こうに、神社の石段の下で立っている少女の姿が見えた。
「あっ、千冬〜」
こちらの姿を見つけて、大きく手を振っている。
俺は少しだけ足に力を込めて、彼女の元へ向かった。
「はぁ……はぁ……お、お疲れ」
「大丈夫? 君の方が疲れて見えるけど」
ペダルを漕ぐ足を止めると、思っていた以上に息が切れていたことに気づく。おそらく、起きてすぐに全力で自転車を漕いだせいで、体がついてきていないのだろう。万年帰宅部の体力はこんなものだ。
「ちょっとフェリーに乗り遅れそうになって」
「そうなの? 別に私は何時でもよかったけど」
「え?」
「あれ、昨日言ってなかったっけ?」
「いや、昨日は遅いって言ってたから、十二時のフェリーに乗らないといけないのかと」
「あ〜、あれは冗談。怒ってないよ」
そう言って、少女はケラケラと笑った。
俺はほっと安堵したのと同時に、ならばなぜ自分はここまで体力を浪費してきたのかという、やり場のない苛立ちを覚えた。
それは結局、ため息になって消えた。
「……まあ、それならよかった。それで、今日は?」
「今日はね〜、海に行こう!」
少女はビシッと人差し指を伸ばして、南の方角を指した。
「海? ってことは、あの海水浴場?」
初めて女木島にやってきた時のことを思い出す。神社に来る途中、大きめの海水浴場があった。あの時は人もまばらだったが、今日から公立の学校は夏休みだ。学生や家族連れが増えていてもおかしくない。
「んー、海水浴場からちょっと行ったところかな」
「ちょっと行ったところ?」
「まあ、行けばわかるよ。行こ」
そう言って、少女は先導するように歩き出した。
俺は自転車から降りて、両手でハンドルを握り、押して歩く。
ゆるい坂を下り、T字路を左に曲がった。右側には、イラストの描かれた壁がある。初めてこの道を通った時と同じルートらしい。
「なぁ、ここの小学校って閉校したのか?」
「んー、何年か前から休校してるよ」
「休校?」
「子供の数が足りないんだって」
「へー。じゃあ島の子供たちは船で通ってるのか」
自分でそう言いながら、少しだけ違和感を覚えた。
何年か前から休校ということは、この少女もこの学校に通っていた可能性がある。けれど昨日、彼女はあまり船に乗らないと言っていた。
外の学校に通っているのなら、船に乗らないはずがない。
「昔は中学校もあったんだけどなぁ……」
どういうことか聞こうとして、言葉が止まった。
少女は、壁の絵を見つめていた。いつものように笑っているのに、その横顔だけが少し遠く見える。
「……へぇ」
結局、出てきたのはそんな単調な相槌だけだった。
やがて郵便局が見えてくる。その前のT字路を右に曲がると、海水浴客のものだろうか、はしゃぐ声と楽しそうな悲鳴が耳に入ってきた。
「あれ、こっちじゃないのか?」
「ううん。こっちで合ってる」
俺は声の聞こえる方へまっすぐ進むのかと思ったが、少女はすぐに左へ曲がった。従って俺も左へ曲がる。
それから十分ほど、まっすぐ進んだ。両脇には民家が立ち並び、その中に新しいゲストハウスやコテージも混じっている。
それらを抜けると、急に視界が開けた。
右手には防波堤。左手には何もない小さな広場。奥には、黒ずんだ白い壁の建物が見える。公衆トイレだろうか。
「とうちゃ〜く」
「ここか?」
「うん、ここ」
少女は先にたたっと防波堤の方へ駆けて行き、ひょいっとその上に登った。
俺も後に続く。胸の高さより少し低い程度の防波堤に手をかけ、足を持ち上げる。膝を軽く擦って「いたっ」と声を漏らすと、横から少女がすかさず突っ込んできた。
「運動不足すぎない?」
「昨日からとっくに通常時の運動量を超えてるんだよ」
「じゃあ、鍛えられてちょうどいいね」
「こっちは鍛錬じゃなくて取引で来てるんだけどな」
「取引相手が倒れたら困るから、ちゃんと鍛えて」
「心配の仕方が業務的なんだよ」
少女は楽しそうに笑った。
防波堤の上に立つと、目の前に海が広がった。
「おー……海と屋島が綺麗に見えるな」
「でしょ。ほら、あっち見て」
少女が指差す方を見ると、右側に先ほどの海水浴場が見えた。前に見た時の倍くらいの人が海に入ったり、砂浜で遊んだりしている。
「やっぱ夏休みだから人多くなってんな」
「あれ、もう夏休みなの?」
「あぁ。多分、ほとんどの学校は今日から夏休みだと思う」
「ふーん、そっか。じゃあ、こっちには人もいないし、ちょうどよかったね」
「確かに」
もう一度、周りを見渡す。
目の前に広がる瀬戸内海。対岸の山と街。遠くで白く光る波。振り返れば、低い民家と小さな広場。
そして、防波堤の上に並ぶ二人。
「……ここ、海水浴場とは全然違うな」
「うん」
「同じ海なのに、静かだ」
「こういう場所もあるんだよ」
少女は海の方を向いたまま、そう言った。
潮風が吹いて、彼女の赤みがかった髪を揺らす。俺はその横顔を少しだけ見て、それから目の前の海へ視線を戻した。
波の音は、海水浴場の方から聞こえる声に比べるとずっと小さい。けれど、耳を澄ませると、防波堤の下で水が揺れている音が確かに聞こえた。
昨日の神社から見た海とは、また違う。
高いところから見下ろす海ではなく、すぐ足元で揺れている海だった。
「…………ほら、何ぼーっとしてるの。早く描いてよ」
唐突に言われて、はっと我に返る。
「え? あぁ、ごめん」
慌てて鞄を開け、画材の準備をしようとすると、隣で少女が堪えきれないように笑い始めた。
「なんだよ」
「君って変わってるよね」
「はぁ? どこが? なんか変なとこあった?」
「いや、冗談冗談。ただ、ちゃんと見てくれて嬉しいなって」
「……それはよくわからんけど、とりあえず描きますよ」
少し呆れたように返事をすると、少女は満足そうに頷いた。
スケッチブックを膝の上に開き、鉛筆を握った。
直接顔に当たる潮風が、前髪を揺らす。汗ばんだ肌に、スケッチブックの紙の端が少し張り付いた。
海と空の境目を探す。
昨日よりも、少しだけ時間をかけて。




