1話 空回り
足が攣った。
シャーというラチェット音だけが響く。
強張るふくらはぎを片手で押さえながら、強い日差しの中、いかにも夏らしい苦悶の表情を浮かべる。
「いっっったぁ……」
ゆっくりとブレーキレバーを引きながら歩道の脇に寄せ、スタンドを下ろす。
右膝を曲げて痛みに耐えながらサドルに肘をついて俯く。しかし、アスファルトに映った自分の影にどうしようもない不快感を覚えて急いで目を逸らすように顔を上げる。一瞬目の前が白くなったように思えて、すぐに通学用鞄から取り出したスポーツドリンクをごくごくと飲み干す。
「大体さ、そんな甘いのばっかり飲んでるから脳が弛んでるんじゃないの」
チャイムが鳴り響いた直後、教室は「待ってました」と言わんばかりの喧騒に包まれる。そして、唐突に根拠のない論理を持ち出してきたのは光だ。
光とは小学生からの仲で、小中高と人生の大半を共に過ごしてきた稀有な友人であるが、たまにこうした突拍子のない論理を提示してきて、その度に俺はくすぐられたような気分になる。
「でもお前だって部活でこれ飲んでるだろ」と少しの理不尽を感じながら指摘すると「お茶の感覚でずっと飲んでるから弛むんだよ」という言葉に小さく吹き出す。
「そもそも脳が弛むってなんだよ。言うなら萎むとか縮むとかだろ」
食べ終わった菓子パンの袋を片付けながら反論する。
「いや、弛んでるね。じゃないとこんな時期までそれを提出できないなんてのはあり得ない」
自転車部らしく焼けた手の指差す方を見やると、何も言い返すことができず俺は頭を抱える。
「やりたいことって言ってもなぁ……」
机の上に置かれた一枚の紙には「進路希望調査」と書かれていた。
「絵、描けばいいじゃん」
軽く放たれたその一言に「絵か……」とだけ呟いて俯く。実際、俺はこの高校の美術科に進学した際、もちろん、画家になるつもりだった。
「この時代に絵を描くとか、意味あるのか?」
そう言って、教室の端でスマホを立てかけ、軽快な音楽を流しながら踊っているクラスメイトに視線を向ける。
「スマホで簡単になんでも撮れて、加工も拡散もやりたい放題。絵なんか古典的なもので生きていけるとは思えない」
「お前、それでも芸術科かよ……」
「まだ芸術家と名乗るほどではない」
光は一瞬、きょとんとしたように固まるが、すぐに机の上のペットボトルを手に取り、コンッと俺の頭を突いた。
「高校のコースの話だよ。謙遜する前に提出しろ」
「はぁ…………わかってるよ」
別に誰に向けたでもない舌打ちをして椅子の背もたれにダラーっと体を預ける。
「川崎〜部活行くぞ〜」
隣のクラスから顔を覗かせたのはおそらく同じ自転車部の奴だろう。
光は「今行く」と軽く返事をする。
「んじゃあ俺、部活あるから行くわ」
「おお。あれ、部活っていつまでだっけ?」
「二八のインハイで引退だからあと2週間だな」
黒板に目を移し、白いチョークで書かれた二〇二六年七月一四日と言う日付を見て、脳内で七月のカレンダーを展開する。
「そうか、まぁぼちぼち頑張れよ」
「優勝してくるわ」
気負わせすぎないように配慮したつもりだったが、光には何故か気合いの入った応援に聞こえたらしい。ニッと笑って足早に駆けていく後ろ姿を見ながら、再び背もたれに蕩け、目を閉じた。
「ばあちゃんち行こうかな」と、誰に言うわけでもなく自然と声帯から発せられたその言葉は気づくと俺の体を立ち上がらせていた。
机の上の進路希望調査書を乱暴に鞄に詰め込み、ペットボトルを片手に駐輪場へ向かう。校舎から出た直後の眩暈のするような温度差に眉を顰めながらもいつもより早い足取りで歩を進める。
前カゴに鞄を置き、鍵を差し込みスタンドを上げる。跨りながら片手に持っていたペットボトルを、股下のフレームに取り付けてあるドリンクホルダーに差し込んだ。
若干、固定が緩くなっているなと思ったが、そういえばこんな普通のママチャリに似つかわしく、ロードバイクと同じようなホルダーを光が取り付けてくれてから2年が経つのか、と思い返しながら足に力を入れる。
祖母の家は高校から自転車で三十分はかかる。昔から無性に心が落ち着かない時、家には帰らず祖母の家で過ごすことが多かった。
中央公園の角を右に曲がり、まっすぐと南下していく。風を切る音だけが涼しく、シャウシャウと鳴く蝉の声が耳にまとわりつくようで、思わず立ち上がりペダルを踏み込む。高速の高架下交差点を通り過ぎて、コンビニを目印に左へ曲がる。こうして自転車を漕いでいる間は、頭を痛くするような考え事をしなくて済んだので昔から好きだった。
見慣れたドラッグストアが見えてきてあと一キロ程度、と言うところで自然と足の力が強まる。リズム良く息を切らして左に、右に、左に、体重を傾ける。景色が自分の横を通り過ぎる。
携帯ショップの売り文句、モデルハウスの幟旗、いくつめかのガソリンスタンド。
ふと、「イラストレーター・絵師募集」という簡素な看板が視界を掠めた。そして、それを見た右のふくらはぎが遅れて思い出したかのようにきゅっと縮みはじめる、あの奇妙な予感がした。




