15話 終業式
ぼおお、という低くて長い汽笛が、島の港に鳴り響いた。
結局、展望台での"取引"は、彼女の要望通り、俺が毎日ここの島に来て絵を描くということで成立した。
あの後は、元来た道を戻り、神社で彼女と解散した。
徐々に遠ざかっていく港を、甲板から見下ろしながらふーっとため息をついた。今日は色々と忙しない日だった。一番大きな要因は、考えるまでもなく最後まで振り回してきた彼女だ。
『じゃあ、また明日ね』と言って手を振る彼女の姿が目に浮かぶ。
「なんで俺に絵を描かせたいんだろう……」
あの展望台でのやり取りを思い出し、ぽつりと呟く。
海風が顔を撫でて、またどこか遠くへと吹き抜けていく。
俺に絵を描かせて、何の得があるのだろうか。
正直、絵を描くなんてのは今の時代、時間ばかりが必要で大した見返りはないと思う。
この風景だって、スマホのカメラでパシャリと撮って、インスタやTikTokに音楽でも付けて投稿すれば多くの人から「いいね」と言う形の賛同を得られるだろう。
光は絵でも描いて将来を見つめ直せと言ってきたが、今日は彼女に頼まれたから描いただけだ。おそらく一人であそこに行っていたら写真を撮って満足していただろう。
そして、彼女は、祖父の絵について、何を知っているというのだろうか。
知り合いなのか?
いや、俺よりも年下に見えるのにその可能性は低いだろう。
じゃあ誰かから何かを聞いた?
…………わからない。祖父の絵のことも、彼女のことも。
ポケットからスマホを取り出して、高松に着く時間を確認しようとする。画面をたっと触ると、現在時刻が表示された。七月一六日一七時二五分。夕陽が沈みかけた海の上で、今度は投げやりに、遠ざかる女木島を見つめながら、はーっとため息を吐いた。
──窓の外から蝉の声が聞こえる。それに耳を澄ましていると、空調の音もはっきりと聞こえるような気がしてくる。
「──あと、前田、この後職員室来るように」
突然、自分の名前が呼ばれて体がビクッと反応する。教室の前を見ると担任がホームルームを終えて、「じゃあそれぞれ有意義な夏休みにしろよ」などと言い残して教室から出て行く。
そして、クラスメイトたちが一斉に立ち上がり、「やっと夏休みだ」「夏期講習あるから地獄だわ」などと、それぞれの思いの丈を口にしていた。
「千冬、お前なんか呼ばれてたやん」
声の主の方を見ると、光が近くの席の椅子をぐいっと寄せて俺の机の正面に腰を下ろした。
「あぁ、多分進路の話だと思う」
「あれ期限いつだっけ?」
「えーと、確か二八だったと思う」
ごそごそと鞄から進路希望調査書を取り出して机の上に置いた。締切日を見ると、記憶通り七月二八日となっていた。
「ふーん。で、どうなの。昨日でなんか決まった?」
昨日というのはおそらく女木島のことだろう。
「そう簡単に進路を決められれば、転職なんてものはこの世に存在しないだろうよ」
「まぁ、全部決められないにしても、何かわかったことがあるんじゃないのか?ほら、あの絵」
あの絵という言葉に無意識に体がぴくりと反応した。
「…………まぁな。ある女の子に会った」
「ある女の子?」
「あぁ。あの絵について色々と知っているんだってよ」
「まじか、え、どんな子?」
「多分島の子なんだろうけど、色々案内してくれたよ」
そう言うと、光は大げさにはぁーっと大きなため息を吐いてこちらをジロリと睨む。
「はぁ……俺が足を攣りながら必死こいて部活動に勤しむ中、あなたは島でデートですか」
「ちげぇよ。お前はそうやってすぐ色恋に結びつけたがる癖を直せ」
「いやいや、それは誰が聞いても文句が出るでしょ」
「出ねぇよ」
「それで、あの絵はどういうことだったんだよ?教えてもらったんだろ?」
俺は一瞬言葉に詰まる。教えてもらうために初対面の女の子と取引をした、なんて言えば光が何を勘違いするかわからない。言葉を選んで口を開いた。
「……知っていることを話す代わりに、俺に絵を描いて欲しい」
「はぁ?絵?」
「『明日から毎日女木島に来て絵を描いて』って言われたんだよ」
「えぇ、マジか。それでどうしたんだよ」
「そりゃ、わかったって言うしかないだろ」
「……実はその子と会う口実ができてラッキーとか思ってないよな」
「思ってねぇよ!」
思わず大きな声を出してしまい、ハッと周りを見渡す。しかし、ほとんどの生徒は浮かれ足で帰った後のようで、残っていた数人も自分たちと同じように話し込んでいて気にする様子はない。
「まぁいいや。じゃあなんかわかったら連絡してくれよ、俺も気になってるから」
「……それはどっちの意味で?」
「どっちもだよ」
そう言って光はそそくさと元あった場所に椅子を戻し、荷物をまとめた。
「じゃあ、部活行ってくるわ」
「おう、頑張れよ」
光はいつものようにニッと歯を見せて笑い、駆け足で教室を出て行った。
……俺はとりあえず職員室に行かなければいけない。おそらく担任に進路についてぐちぐちと言われるのだろう。自分のことを思ってくれているのはわかるが、どうしてもありがたいとは思えない。
荷物をまとめて席を立つ。そして教室を出ようとしたが、ふと日直だったことを思い出す。
黒板の前まで歩いて行き、日付を書き換える。
二〇二六年七月一八日。
そこまで書いてハッと思い出す。
そうだ、今日は終業式、一学期最後の日だった。
黒板消しを手に取って日付を消して、もう一度、二学期最初の日に書き直す。
二〇二六年九月一日。
今日で高校三年生の一学期が終わり、明日からはそれぞれが様々な過ごし方をする夏休み。刺すような日差しを受ける窓に、何食わぬ顔でゴーゴーと鳴るクーラー。その音を聞いてフェリーの汽笛を思い出す、そんな日だった。




