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笑った女鬼の島  作者: アコウ丸


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14話 水筆

 昼下がりもそろそろ終わりを告げようかというような日差しの中、俺は筆を紙の上で滑らせていた。

眼下に広がる瀬戸内海。青い色のついた水筆を、鉛筆の下書きの上に置く。最初から濃く塗ると、取り返しがつかない。だから薄く、できるだけ薄く。海というより、紙の白さに青を少し混ぜるくらいのつもりで筆を滑らせる。水を含んだ紙の表面が、日差しを受けてかすかに光った。

「おー!」少女は目を輝かせて身を乗り出す。

「大げさだな」

「だって、急に海っぽくなった」

「まだ一色乗せただけだぞ」

「でも、線だけの時と全然違う」

 少女の声が、少しだけ静かになった。

 俺は手を止めずに、空にも薄い青を引いた。海よりもさらに淡く、上にいくほど少しだけ色を残して、水平線に近いところは水でぼかす。高松の市街地はまだ塗らない。遠くのものを先に濃くしてしまうと、近くに見えてしまうからだ。

「絵って、順番があるんだ」

「一応な。空とか海みたいに広いところから塗る方がやりやすい」

「じゃあ、家は?」

「あと。細かいところは最後」

「私だったら最初に家を描くけど」

「それをやると、たぶん途中で嫌になる」

「なんで?」

「細かいところから描くと、全体が見えなくなるから」

 言いながら、自分で少しだけ引っかかった。

 全体が見えなくなる。

 最近の俺は、逆だ。周りが受験だとか、進路だとか、将来だとか言って、目の前のことに必死になっているのを横目に、無気力に毎日を過ごしていた。

 自分がどうしたいのか、全体を見渡せば見渡すほど足元はおぼつかなくなっていく。

 絵とは逆だ。

 そう思っていると、無意識に手に力をこめてしまっていたのか筆先から水が落ちる。紙の上の海を少しだけ滲ませる。慌ててティッシュで押さえると、青が薄く抜けて、そこだけ光が当たったみたいになった。

「……」

「あ、失敗?」

「いや……これはこれでいい」

「本当?」

「たぶん」

「たぶんなんだ」

 少女は小さく笑った。

 俺はパレットから色を拾い、港の近くに並ぶ屋根へ薄く色を置く。赤茶けた屋根、隙間に生える木々、何も植えられていないように見える畑。目の前の景色をそのまま写しているはずなのに、紙の上に移した途端、それは少し違う場所のようにも見えた。

 自分の手と紙に降りかかるような視線を感じながら筆を動かした。

 3本の水筆を使い回しながら色を重ねていく。

 時に乾くのをじっと待って、また筆を乗せる。

 そんなことを何回か、何十回も繰り返していくうちにだんだんと色鮮やかに彩られていった。

 

「………………できた」

 日が傾き始めた頃、水筆を持つ手を止めた。手元には瀬戸内海と港、そして高松の街並みが描かれた水彩画があった。

「どれどれ!」

 ずっと俺の右肩越しに覗いていた少女は、真横に身を乗り出してきて、絵を見つめる。

「これでいいか?」

「うん、すごくいい!」

「ならよかった」

 俺はスケッチブックを一旦ベンチに置いて、水筆の穂先とパレットに残った絵の具をティッシュで拭った。

「ねぇ、これ持ってもいい?」

「いいけど、まだ乾いてないから絵には触るなよ」

そう言うと、少女はスケッチブックをおそるおそる持ち上げてまじまじと見つめ始めた。そして、それを景色と照らし合わせて、まるで間違い探しをするかのように交互に視線を移している。

「やっぱ意外と上手いね、君」

「意外とってなんだよ」

「だって、最近は描いてなかったんでしょ?」

 唐突に意表を突かれて体が固まる。

「…………なんで知ってるんだよ」

「色を選ぶ時、ちょっと迷ってたでしょ」

 確かに、最近は学校の授業以外で絵を描くことはない。授業では学校に置いてあるパレットを使うため、この私用の持ち運びしやすい小さなものは、もう1年は触っていなかった。

「もしかして、本当は最初から知ってたのか?」

「何を?」

「絵の描き方とか、良し悪しとか」

「あはは、そんなの知らないよ」

 少女は軽く笑って、手に持っていたスケッチブックを「はい」と言って返してくる。

「てっきり、ミシュランの調査員的なのかと」

「みしゅらん?何それ」

 きょとんとした様子でこちらを見てくる。

「ただ、昔、あなたみたいに絵を描いてくれた人がいただけ」

 そう言って少女は振り返って先ほどの景色を見下ろした。後ろ姿に夕陽が影を落として赤みがかった黒髪は、赤を消して完全に黒くなったように見えた。

「ねぇ、この島にはもう来ないの?」

 彼女は振り返らずに変わらない口調で問いかけた。俺はその時、ハッと祖父の絵について思い出す。

「あー……まぁそうだな。結局何もわからなかったし」

「あの絵のこと?」

「あぁ。女木島で何をしろ、とも書かれてなかったわけだから、まぁ予想はしてたけどな」

「そっか」

 そう言って、二人の間にしばらくの沈黙が流れた。潮と暑さを含んだような、生ぬるい風が通り抜ける。俺はパレットと水筆を鞄に入れて、スポーツドリンクを取り出した。それを開けてゴクゴクと飲み始めると、景色を見下ろしたままだった少女はやっと振り返った。

「私、その絵のこと知ってるよ」

 その声はあの揶揄う口調ではなく、ただ重く、突き刺さるようだった。夕陽が彼女を右から照らして、横髪の影に隠れた顔の表情は、見えにくい。

「……え?」

「たぶん、描いた意味もわかる」

「ほ、ほんとか!?」思わず身を乗り出して聞く。

「うん。知りたい?」

 俺はこくこくと頷く。おじいちゃんが遺した、あの絵。そして嶽山で発見した、"おじいちゃんが遺したと思われる"あの絵。

 『じいちゃん、絵について聞いたら、すごく寂しそうな顔をするんよ』

 おばあちゃんが言っていた言葉が頭の中で反響する。

「いいよ、教えてあげる」

 俺はごくりと唾を飲み込んだ。

「でも条件がある」

「条件?」

「そう」

 予想外の言葉に俺は息が浅くなる。

 しかし、ふーっと息を吐き、呼吸を整えてから向き直った。

「わかった、できることなら」

「…………」

 少し間を開けて、小さく息を吸う音が聞こえた。

「明日から毎日、この島に来て絵を描いてくれる?」

 少女は髪を左耳にかけ、顔が夕陽に照らされた。目に映ったのは真剣な表情、ではなく、あの揶揄うような顔だった。

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