13話 お願い
「あなたは?何で散策に来たの?」
少女の問いかけに言葉が詰まる。祖父の絵を見てきたと言うには何故か気が引けた。
「…………なんとなく?」
「なんとなくで一度も来たことがない女木島になんて来る?」
「来るかもしれないじゃん」
「…………」
少女はじっと俺の顔を見つめた。よほど俺の動機が知りたいのか、先ほどまでの明るい表情は抜け落ちて、真剣な眼差しになっている
「……絵を見て、来たんだ」
「何の絵?」
背負っていた鞄を下ろして、クリアファイルを取り出す。そしてその中に挟まっていた2枚の絵を少女に見せる。
「これだよ」
少女の前に絵を掲げた時、少女は驚いたように目を見開いた。その表情はすぐに元に戻ったが、
「これは……山からの景色?」
「あぁ、嶽山っていう山から描いたみたいだ」
「それで、この絵の何が関係あるの?」
「これだよ」俺は鉛筆で線画だけが書かれた方の絵を指差す。
「こっちだけ、とある島が赤く塗られてる」
少女は何も言わずに下を向いてその絵をじーっと見つめている。髪の毛がさらりと横顔を隠し、表情が見えない。
「これは……女木島?」
「あぁ、そうみたいだ。裏に女木島へって書いてるんだよ」
その絵を裏返すと、掠れた鉛筆で女木島へとだけ書いてある。また少女はそれをじっと見つめているようで、しばらく動かなかった。その時、ぽたんと一つの水滴が垂れた。
少女の汗だろうか。俺はそれを見て、日差しが自分たちを容赦なく射していることを思い出した。今まで暑そうなそぶりは見せていなかったがやはり汗は出てしまうものらしい。
「あー、タオル持ってないなら使う?使ったやつでいいならだけど」
そう言うと、一瞬、少女はハッとしたように体をビクッと動かすが、すぐに自分のTシャツの袖を使って大げさにゴシゴシと顔全体を拭いた。
「いい。臭そうだし」
「はぁ!?」
「冗談だって」顔を上げた少女は、また同じようにケラケラと笑みを浮かべている。
「冗談に聞こえねぇよ」
俺は鞄からタオルを取り出して、少女と同じように大げさに顔を拭く。顔を上げると少女はニヤニヤしながらこちらを見ていた。
「ねぇ、絵描きなんでしょ?」
「だから、絵描きっていうほどでもないって」
「でも私よりは描けるでしょ?」
「それは知らん」
「お願いがあるんだけどさ」
何故か少し、足を攣る前のような、あの嫌な予感がして身構える。少女から次の言葉が放たれるまでがやけに長く感じられ、蝉の声が大きく聞こえた。
「絵、描いてよ」
「…………え?」
「絵だよ、絵。ここの風景」
そう言って少女は立ち上がり、海や島を背に大きく手を広げた。熱を帯びた風が彼女の髪とスカートの裾を揺らす。
「うーん……」
俺は頭の後ろを掻く。最近は、授業以外の時に絵を描くことはなくなっていた。下校途中の綺麗な夕空を見ても、ふとした瞬間の日常も、全てスマホで写真を撮るか、目に焼き付けておこうと思っただけだった。以前はことあるごとに絵を描いていた気がするが。
「お願い!」
少女は広げていた手をパンっと胸の前で合わせて、まるで親におもちゃをねだるような表情でこちらを見てきた。
「言っておくが、大して上手くはないからな」
「やったー!」少女はぴょんっと跳ねて大げさに喜びを見せる。それを横目に鞄からスケッチブックと鉛筆を取り出す。
「それで、どこの方角を描いたらいい?」
「えっとねー……こっちかな」指差す方を見ると、奥には高松の市街地が目に入った。
「わかった」
「ちゃんと描いてよ」
「できる範囲でな」
そう言って鉛筆を走らせる。紙全体に十字を引いて、それから真下に見える女木島の港と立ち並ぶ屋根、そして瀬戸内海を隔てた高松の地形を大まかに形取っていく。
汗ばんだ肌が紙に薄くまとわりつく。そしてまた、まとわりつくように右から少女がスケッチブックを覗き込んでいた。
「近い」
「え?」
「顔が近い。あと、影になる」
「あ、ごめん」
そう言いながらも、少女は大して離れなかった。ほんの少しだけ体を引いて、俺の肩越しにスケッチブックを覗き込む。右側から差し込んでいた彼女の影がすっと遠のいて紙の白さが落ち着いた。
「それ、最初に十字を書くんだ」
「だいたいの位置を決めるため。何も考えずに描き始めると、途中で港がでかくなりすぎたり、海が狭くなったりするから」
「へぇ。絵って、見たまま描くんじゃないんだ」
「見たまま描こうとしても、見たままにはならないからな」
「何それ。哲学?」
「ただの失敗談」
防波堤の輪郭を軽くなぞり、屋根のまとまりを四角く置いていく。瓦の一枚一枚なんて描いていたらきりがない。遠くから見れば、家は家ではなく、明るい面と暗い面の集まりになる。白っぽく光っている壁、影を落とした屋根、その隙間を縫うような細い道。全部を細かく追うのではなく、まずは大きな形だけを紙の上に移した。
「ねぇ、そこ適当じゃない?」
「適当じゃない」
「ほんとに?」
「本当に。全部描いたらぐちゃぐちゃになるんだよ。遠くにあるものは、遠くにあるように描かないと」
「ふーん」
納得したのかしていないのか、少女は気の抜けた返事をした。俺は鉛筆を持つ指に力を入れすぎないようにして、海岸線を引く。眼下に広がる瀬戸内の海は、陽の光を受けてキラキラと光り、ところどころに波が立って白い筋を浮かばせている。
今日はほとんど雲のない晴天で、向こう岸の高松ははっきり見えていた。
「なんか、さっきよりそれっぽくなった」
「まだ下書きだけどな」
「下書き?」
「このあと色をつける。鉛筆はそのための目印みたいなもの」
そう言って、鞄から小さな水彩のパレットと水筆を取り出した。透明な軸の中で水が揺れる。キャップを外してグッと柄を押すと筆先にじわりと水が滲んだ。
「何それ。筆なのに水筒みたい」
「水筆。中に水が入ってるから、外で描く時は楽なんだよ」
「へぇ、便利」
少女は感心したように水筆を見つめた。俺はパレットに出してある青の色を穂先で撫でる。すると、筆がゆっくりと青色に染まっていく。パレットの余白で色を整え、余分な水をティッシュで吸わせてから、紙の上の海に薄く色を置いた。
「ていうかさ、渋ってた割には準備万端じゃん」
その言葉を聞いた途端、少し手の動きが鈍った。代わりに、蝉の声がやけに大きく聞こえた気がした。




