6…諾士佛台
外には霧のような雨が降り始めていた。雨は街路樹の葉に触れて、細かな音を立てていた。駅に向かってしばらく歩くと、ミッシェルがいた。彼女はビルの壁にもたれて片足をぶらぶらとさせ、降り出した雨を眺めていた。俺に気づくと足の動きを止め、ゆっくりとこちらに顔を向けて力なく微笑んだ。
それからの数時間を、俺たちは諾士佛台のバーで過ごした。ミッシェルと俺はカウンター席に隣り合って座り、ほとんど何も喋らなかった。黙ったまま酒を飲み、煙草を吸った。煙は光の中をゆらゆらと立ち昇り、天井に吸い込まれて消えていった。カウンターのシャルトリューズ・イエローの照明が、乱れた前髪に隠れた彼女の横顔を照らしていた。
モニターではサッカーの中継が始まって終わった。入口のドアが開いては閉じ、男と女が現れては去った。ビールが注がれ、シェイカーが振られ、ダーツが投げられた。機械音が鳴り、ざわめきと歓声が上がり、やがて静かになった。テラス席の扉が開くたびにオーニングを打つ雨の音が聞こえ、雨の匂いが入ってきた。雨の音は少しずつ強く、深くなっていった。後ろの台では九個の球がラックに組まれ、それから弾かれた。球はポケットに落ちてスレートの底の傾斜路を転がり、音を立ててリターンボックスへと戻っていった。夜は早回しのように流れていった。カウンターの二人の周りの時間だけが、スローモーションのようにゆっくりと動いていた。
俺は流れては消えていく音楽をぼんやりと聴いていた。『アイ・ワナ・ダンス・ウィズ・サムバディ』『テイク・オン・ミー』『ドント・ゲット・ミー・ロング』『エヴリ・ブレス・ユー・テイク』『ナッシングズ・ゴナ・ストップ・アス・ナウ』『パープル・レイン』――。遠い過去に生まれ、時の中で泡のように消えていった音楽たちだった。
やがて彼女はふらふらと立ち上がり、カウンターにいくらかの金を置いて、何も言わずに店を出ていった。俺は会計を済ませ、彼女を追って店を出た。
雨が強くなっていた。舗道に跳ね返る雨粒を街灯の光が照らしていた。細い路地の向こうに、ミッシェルの後ろ姿が見えた。彼女は壁に手をつきながら歩き、うなだれてしゃがみこみ、また立ち上がって歩き始めた。
俺は彼女の後を追い、ジャケットを傘がわりに広げて彼女を覆った。彼女は立ち止まり、少しだけ顔をこちらに向け、ぼんやりとした目で俺を見た。黒い布地が通りの色と光を遮った。背中からの風が路地を吹き抜け、夜の熱と匂いを散らして去った。風のあとには空白が残った。時の余白の空白だった。頭上を叩く雨音の中に、二人は立っていた。彼女は視線を落とし、ふっと息を吐いて瞼を閉じ、わずかに俺の胸にもたれ、濡れた頭をすりよせた。ジャケットの下に、彼女の温度と湿度、呼吸と微かな重みを感じた。しばらくして彼女は目を開け、またふらふらと歩き始めた。
深い青の中に街があった。夜明け前の幽い時間だった。彼女を支えながら階段を降り、通りに出た。二人ともずぶ濡れになっていた。
雨の中をしばらく歩いたあと、彼女は不意に俺の腕を抜け、通りの端に寄った。叫びながらシャッターを拳で殴り、ヒールで蹴り、ハンドバッグを叩きつけた。バッグの中身がこぼれて、濡れた路上に散らばった。化粧道具、制汗剤、頭痛薬、ポータブル・プレイヤー。猫のチャームが揺れて光り、微かな音を響かせた。
俺は遠くに滑っていった手鏡を拾いにいった。彼女は両腕を振り上げて何度もシャッターを殴り、頭を叩きつけて吠え、音を立ててシャッターに突っ伏した。食いしばった歯の隙間から息が漏れ、細い両腕ががたがたと震えていた。俺は散らばったままの小物を拾い、彼女に近づいた。
「なんで、いつも、あたしだけ――」
そう叫んで彼女は振り返り、俺の肩にぶつかるように額を埋めた。堅く握りしめられた小さい拳が、俺の胸を叩く。雨が路面を打ち、足元に跳ね返る。光が訪れ、二人の影を壁に映す。影は乱れながら流れ、通りの闇に呑み込まれて消えた。やがて拳の力は弱まり、彼女は声を上げて泣いた。
ひとしきり泣き終わると、彼女は俺の肩から額を離した。鼻をすすり、肩を上下させながら、何度か息をついた。呼吸が落ち着くと、彼女は呟くように何かを言った。ありがとう、あなたは悪くないわ、そんな言葉だった。彼女はうつむき、もう一度鼻をすすり、少しだけ微笑んだ。それから表情を凍らせ、顔を上げた。
サイレンが近づいて遠ざかった。赤い光の中で彼女の唇が動き、言葉を形作った。俺は彼女を見た。彼女は俺を見返した。化粧が落ちて崩れ、顎の先から雨の滴が垂れていた。
雨がさらに強くなった。叩きつける雨の中に、すべての音が消えていった。




