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5…尖沙咀

 雲の切れ間に月が出ていた。俺は荃灣(チュンワン)線に乗り換えて、尖沙咀でMTRを降りた。予定が変更されて暇ができてしまったので、尖東(ツィムトン)までは遠回りをして、時間を潰しながら海沿いの道を歩いていくことにした。

 香港島の光がヴィクトリア・ハーバーを染めていた。港が低く唸り、遠くで汽笛の音がした。俺は水際の欄干にもたれ、潮の匂いを吸い込んだ。対岸の光は海面に揺らぎながら溶けて伸び、波音が静かにざわめいていた。

 文化中心(マンファーチョンサム)まで歩き、芝居と舞踊のポスターを眺めた。海際に戻りながら、昔観た映画を思い出した。腐ったリンゴ、夢遊病の女、そんな映画だった。鐘樓の赤レンガに触り、さらに先へと歩いた。フェリー乗り場の売店で炭酸水を買い、渇いた喉に流し込んだ。

 来た道を引き返し、藝術館(ガイソッグン)の横を通り、星光大道(アベニュー・オブ・スターズ)を歩いていった。移動販売車からバニラの匂いが漂っていた。口のきけない店員の店だった。碧い目の芸人がチェロを弾くパペットを操り、トランクに小銭を集めていた。三脚を立てた男が夢中で写真を撮り、ヒジャブを巻いた女たちが興奮を顔に残しながら通り過ぎていった。俺は記念プレートを眺め、いくらか物を思った。死んだ人間、生きている人間、そんなことだ。

 海からの風が吹いていた。気持ちのよい風だった。久し振りに映画を観たいと思った。ジム・ジャームッシュ、ウォン・カーウァイ、ソフィア・コッポラ、そのあたりがいい。


 歩道橋を渡り、少し歩いて指定の店に着いた。通りに面した二階建ての店だった。

 一階は立ち飲みのパブになっており、ジョッキを手にした英国人たちでにぎわっていた。このあとはチャンピオンズ・リーグの決勝戦がある。ここで観戦する連中もいるのだろう。現地時間午後八時四十五分、香港時間午前二時四十五分。まだ時間はあったが、ビールが進んでいるようだった。ユニオンジャックが描かれた木製の階段を、俺は二階へと上がった。

 二階にそれらしい男たちはいなかった。ミッシェルもまだ来ていない。俺は階段近くの席に座り、店内を見渡した。右手の壁際にソファ席が二組、中央に丸テーブルが三つ、左手の階段脇にテーブル席が二組。テラスにもいくつかの席があるが、そちらは考慮しなくてよい。各席の位置関係を確認し、それぞれの距離を目で測った。何組かの客はいるが、今は気にしなくていい。椅子の背にもたれて目を閉じ、いつものようにシミュレーションを始めた。イメージが整って目を開け、煙草に火を点け、届いたコーヒーを口に運んだ。


 やがてどかどかと階段を上がってくる音がして、男たちが現れた。善良な市民には見えない男たちだったが、皆ジャケットは着用しており、ドレスコード上の文句は言えまい。

 先頭は大柄な若造だった。猪と河馬を掛け合わせたような顔をしており、丈の足りない袖口から太く毛深い腕が覗いていた。真ん中が崔という男なのだろう。スリーピースの黒いスーツ、黒いシャツに黒いネクタイをして、黒い髪を後ろに撫でつけていた。崔の後ろから現れたのは上海蟹のような顔をしたがに股の若造で、ジャケットの下に蟹のような模様のシャツを着ていた。合計三人。西遊記の面々よりはいくらか上品さが劣る連中、といったところだろう。

 崔は店内を見渡し、若造に目をやり、顎を動かした。猪顔の若造が壁際の席に行き、談笑していた白人の若い男女に何かを言った。紳士的とは言い難い口調だった。眼鏡の男女は悲しげな顔をして去っていった。気の毒ではあったが、彼らのボディーガードは俺の仕事ではない。猪顔が腕を広げて席を示し、男たちはテーブルに向かった。


 奥の革張りのソファに崔が座り、若造ふたりが通路側の椅子に座った。黒ずくめの異様な卓になった。男たちの姿を見て、何組かの客が席を立った。

 俺は改めて崔を見た。三十半ば、浅黒い肌、額は平たく、眉間に消えない皺が刻まれている。冷たい眉の下に光のない目が二つついており、その下に尖った鼻と薄い口が穴を空けている。蛇のような印象を与える顔だ。耳は小さく、頭蓋骨に張りつくように平らについているが、それが何を意味するのか俺にはわからない。上背は俺よりいくらか低い。百七十五センチ、そんなところだろう。鍛えられてはおり、身ごなしも悪くなかった。

 崔が煙草を咥えると、蟹面の若造が慌てて立ち上がり、金色のライターでテーブル越しに火を点けた。ウェイターが注文を取りにいき、若造ふたりにすごまれて引き下がった。崔がこちらに気づき、光のない目で俺を見た。俺も同じ目で見返した。


 崔が懐中時計を気にし始めた頃、ミッシェルが現れた。光沢のある赤いドレスに豹柄のカーディガンを羽織り、いつもより強い化粧をしていた。彼女は男たちの敵意ある視線を無視して、おどけて俺に手を振ってみせた。俺も手で軽く挨拶を返した。

 挨拶が済むと、彼女は表情を凍らせ、顎を鋭く上げて目線を落とし、ヒールの音を響かせながら男たちのテーブルに近づいていった。

 立ち上がる若造たちには一瞥もくれず、彼女は崔に向かって滑らかな北京語で言った。

「話をするのに」冷たく低く、突き刺すような声だった。

「この子たちは必要ないでしょ。下がらせて」

 気色ばんで何かを言おうとする若造たちを手で制し、崔は顎を動かして他の席を示した。若造たちはミッシェルを睨み、どかどかと歩いて少し離れた階段脇の席に座った。ふたりがひとつのテーブルについたのは好都合だった。視野を広く使わずに済む。

「あの男は?」

 崔はソファにもたれたまま腕を組み、顎をしゃくって俺を示した。

「あんたに関係ないわ」

 冷ややかに答え、若造が座っていた椅子を引き、座面を手で払ってから腰を下ろした。座るなり身体を斜めに向けて脚を組み、煙草に火を点け、胸の前で腕をからめて、斜め上に煙を吹いた。


 崔が口を開き、ミッシェルが答え、すぐに沈黙が訪れた。注文を取りにいったウェイターが崔に睨まれ、ミッシェルに無視され、別のテーブルで若造ふたりに怒鳴られた。泣きそうな顔でおろおろしているウェイターに、俺は声をかけた。

「二つのテーブルに人数分のコーヒーを出してやってくれ。勘定は俺につけてくれていい。コーヒーの種類? そうだね、一番人気があるものでいいよ。俺には檸檬茶(ニンモンチャ)を。ありがとう」

 ウェイターは熱心に何度も頷いた。学生のアルバイトなのだろう。俺にも経験がある。三日と続かなかったが。


 コーヒーが届けられた。若造ふたりはウェイターに何かを訊ね、顔を見合わせて囁き合い、おずおずと俺に会釈をして、コーヒーをすすり始めた。かわいい坊やたちだ。自分たちがどうしてここにいるのかもよくわかっていないのだろう。俺にしたって大した違いはないが。

 ミッシェルたちのテーブルでは手がつけられないままにコーヒーが冷めていった。声量は落とされ、何を話しているかはわからなかった。

 組織、上海、制裁、老大(ラオタ)、時おりそんな言葉の切れ切れは聞こえてきたが、俺には関係のないことだった。彼らには彼らの領域があり、俺には俺の領域がある。それ以上でもそれ以下でもない。

 時間が流れた。長い時間だった。沈黙があり、敵意があり、強圧があり、冷笑があった。話は張り詰めた弦のように動かなかった。何かの張力が加われば、音を立てて切れてしまいそうに見えた。若造たちは小声でくすくすと話をしていた。香港の女たちの話でもしているのだろう。俺は檸檬茶を最後の一滴まですすり、煙草を吸い続けた。それぞれの灰皿に、煙草の灰と吸殻だけが積もっていった。


 不意にミッシェルが立ち上がり、カップを掴み上げてコーヒーを崔の顔にかけ、言った。

「あたしは昔のあたしじゃないわ」

 冷たく突き放すような声だった。

 慌てて立ち上がろうとした若造たちは、懐に手をやる前に動きを止めた。俺のテーブルの陰で、二つの銃口が二つのテーブルに狙いを定めていたからだ。

 崔は顔をしかめ、俺に向かって頷き、若造たちを手で制した。若造たちは視線を泳がせながら、ぎくしゃくと椅子に戻った。崔はゆっくりとした動作で胸のポケットからハンカチを取り出し、顔を拭った。ミッシェルは立ったままで崔を見下ろしていた。俺はまだ崔と若造たちに銃口を向けていた。

 顔を拭き終えると、崔は丁寧にハンカチを畳み、出したときと同じようにゆっくりと胸のポケットに戻した。両手をテーブルに載せ、うつむくように前屈みになり、人差し指で何度か卓の上を叩いた。息を大きく吸い込み、そのままの姿勢でしばらく動かなかった。若造たちは相変わらず目を泳がせながら、俺と崔をちらちらと見比べていた。ミッシェルは動かなかった。俺は親指の背で安全装置をかけ、二挺の拳銃をホルスターに戻した。


 やがて崔は息をつき、両肘をテーブルについて指を組み、ミッシェルを見上げて何かを言った。彼女は答えなかった。崔はしばらく彼女を見つめ、それから目線を落とし、鼻からふんと息を吐いた。口の端を歪め、ゆっくりと三度、首を上下に動かし、どこかの宙を見つめた。若造たちは崔の動きを見守っていた。ミッシェルは崔を見下ろし続けていた。俺は脚を組み、椅子の背にもたれ、彼らを眺めていた。

 しばらくして崔は顔を上げ、顎の動きで若造たちに階段を示し、ゆっくりと立ち上がった。


 去り際に崔は俺の後ろで足を止め、こちらを見ずに言った。

「ひとつ言っておく。いずれ美玲(メイリン)はお前を――」

「広東語で話してくれ」

 俺は崔の言葉を遮り、振り返らずに続けた。

「中国語はよくわからない」

 崔の動きが止まり、表情が変わるのが、背中越しにわかった。崔の口が開く音がしたが、言葉は出てこなかった。

 天井では二台のシーリング・ファンがぱたぱたと回り、煙に澱んだ空気をかき混ぜていた。外の車道でブレーキが踏まれ、タイヤが路面で軋りを上げた。階下でどっと笑い声が起こり、ジョッキがぶつかる音がした。テラスから一筋の風が吹き込み、排気ガスとアルコールの匂いを運んだ。俺たちは背中を向け合い、それぞれの目線の先を見つめていた。

 やがて崔はふっと息を吐き、低く金属質な声で言った。

「覚えておくといい」

 訛りの強い、耳障りな広東語だった。

「大陸の人間は、執念深いんだよ」


 階段を降りる音が遠ざかって消えた。二階には俺とミッシェルしか残っていなかった。俺は煙草に火を点け、煙を吐き出した。灰皿は吸殻でいっぱいだった。ミッシェルは立ったままでテーブルに両手をついていた。カーディガンの下の細い肩が微かに震えていた。

 しばらくして彼女は不意にハンドバッグを掴み、靴音を立てながら足早に化粧室に入り、勢いよくドアを閉めた。化粧室から何度か壁を殴るような音が聞こえ、それから静かになった。俺はウェイターを呼び、チップを多めに載せて会計を済ませた。

 やがて彼女は力の抜けた表情で化粧室から出てきて、階段に向かった。俺のそばでふと立ち止まり、掠れた声で言葉を押し出した。

「コーヒー」

 声の底に震えが残っていた。

「――悪かったわね。ありがとう」

 構わない、と俺は手で合図し、階段を降りていく彼女の靴音を聞いた。

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