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4…蘭桂坊

 二週間ほど経ったある日、ミッシェルから電話があった。飲みに行きましょ、というシンプルな誘いだった。ときどきそんな風に呼び出される。彼女なりの距離感があるのだろう。俺はなんでも構わない。彼女のやりやすいようにやってくれればいい。夜になり、身支度をして蘭桂坊(ランクヮイフォン)に向かった。


 畢打街(ペダー・ストリート)でトラムを降り、皇后大道(クイーンズ・ロード)から德己立街(ダギラー・ストリート)の坂道を上っていった。交差点ではギターを抱えた男がボブ・サンクラーの『ラブ・ジェネレーション』を歌っていた。通りにはクラブや飲食店からの音と光が溢れ、様々な肌と髪色の人間たちが夜の街に向かっていった。


 バーに入った。雑居ビルの一階だった。細長い店内にミッシェルの姿を探す必要はなかった。欧米人の男と女が二組、客はそれだけだった。俺はカウンター席に座り、酒を頼み、煙草に火を点けた。メニューを眺め、ペーパーバックを開いて閉じ、とりとめのない考え事をして時間を潰した。三本目の煙草を吸い終え、ロックグラスの底が見え始めた頃、背中にそっと指が触れ、やわらかで物憂げな女の声がした。

「相変わらず変わった形の耳をしているわね」

 耳を見ればその人間のことはだいたいわかる。それが彼女の言い分だった。紅茶の匂いの香水が香り、彼女は俺の隣に腰を下ろした。銀色のハンドバッグに猫のチャームが揺れ、臙脂色のニットにラメがきらめいた。

「何を飲む?」

「ブラッディ・メアリー」

 俺はバーテンダーに合図をし、ブラッディ・メアリーと二杯目のベルモット、ミックスナッツとチーズの盛り合わせを注文した。彼女は煙草を取り出して咥え、俺が火を点けると小さく頷いた。


「ひどい映画だったわ」

 煙を細く吹きながら、呟くように彼女は言った。

「なんていう映画だい」

 俺は灰皿を彼女の方に寄せながら訊ねた。彼女はぽかんと口を開けて空中を見つめ、それから諦めて首を振った。

「忘れたわ」

 彼女はうつむき、しばらく何かを考えていた。不揃いに切られた前髪が白い額を被う。やがて彼女は顔を上げ、はっきりとした声で言った。

「馬が出てくる映画よ」

 言葉を出してから首をかしげてまた考え、ぽつりと言った。

「羊だったかもしれない」

 もう一度うつむき、もう一度首を振った。

「大した違いじゃないわ。とにかくひどい映画だったのよ」

 届いたカクテルを一息で半分飲み干し、グラスに向かってもう一度呟いた。

「本当にひどい映画だった」

 俺は頷き、煙草に火を点けた。


 彼女はトッピングのフルーツをつまみ上げて珍しそうに眺め、やがて飽きたようにグラスに戻した。カクテルを飲み、氷を口に含んでコリコリと齧った。カウンターの赤い照明に照らされて、赤い口紅がさらに赤く見えた。しばらくして思い出したように彼女は言った。

「音楽が気に入らないわね」

 彼女はバーテンダーを呼びつけて二、三言言いつけた。バーテンダーは何度か頷き、カウンターの奥に消えた。音楽が止まり、R&Bに変わった。

「そう、これでいいのよ」

 彼女はカクテルの残りを飲み干し、俺は戻ってきたバーテンダーに彼女のドリンクを頼んだ。サングリアの赤と一緒にチーズの盛り合わせが届いた。俺たちは酒を飲み、煙草を吸い、ナッツやチーズをつまんだ。

「これ、美味しいわよ」

 そう言って彼女は乾燥イチジクを俺によこした。確かに悪くない味だった。そうなるとワインがほしくなる。俺はグラスの赤を頼み、彼女も同じものを飲むと言った。


「もう三年になるのね」

 何杯目かのワイングラスを口に運びながら、彼女は言った。俺は頭の中で指を立てて数え、そうなるかな、と頷いた。三年間。短くはない年月だ。彼女はグラスをカウンターに置き、口紅の跡を見つめた。

「あなたのことは高く評価しているわ」

 それはありがたい、と俺は答えた。評価されるのは嫌いではない。彼女はグラスを持ち上げ、空中で何度かくるくると回し、ワインの中に何かを見ながら訊ねた。

「ロープウェイに乗ったことはある?」

 いや、と俺は首を振った。彼女は軽く頷き、ワインを口に含み、舌の上で転がしてから喉に落とした。グラスを置き、カウンターに両肘をつき、ハート型のように指の背を合わせて、訊いた。

「日本語はできる?」

 俺は首を振った。彼女は唇を少し尖らせて突き出し、何度か親指をぴょこぴょこと動かして、その動きを目で追った。それから親指を止めて、訊ねた。

「手相は見られる?」

 俺は首を振り、自分の左手を眺めた。面白みのない左手だった。ミッシェルは自分の両手のひらを眺め、裏に返して甲も眺め、指を反らせて爪を見渡し、僅かに口を開いた。細く長い指の先に、銀色のネイルがきらめいた。


 ぼんやりと口を開けたまま爪を見つめ、しばらく何かを考えたあと、彼女は俺のライターを何気なく手に取り、弄び始めた。点検するように各部を眺め、底の印字まで見ていた。ライターを見つめながら、彼女は言った。

「あなたは香港の人ね」

 そうだ、と俺は頷いた。生まれも育ちも香港だ。彼女は両手でライターの蓋を開け、鼻に近づけてオイルの匂いを嗅ぎ、顔をしかめて蓋を閉じた。

「都会人ね」

 自分の髪をつまんで匂いを嗅ぎ、毛先を見つめながら言った。どうだろう、と俺は首をかしげた。

「都会人よ」

ふっと息を吹いて、髪を戻した。かもしれない、と俺は答えた。彼女は頬杖をつき、今度は片手で蓋を開け、ぎこちない手つきでフリントを擦った。

「都会はいいわね」

 何度か着火に失敗したあと、ぼっと音がして火が点いた。彼女は頬杖をついたまま、遠くを見るような目で炎を見つめた。

「都会には、自由があるわ」

 揺れる炎が瞳に映り、彼女の横顔を照らした。俺は何も言わなかった。しばらく炎を見つめたあと、彼女は素っ気なく言い、蓋をぱちんと閉じた。

「香港が好きよ」

 指先でライターを何度か揺さぶり、それから俺に戻した。


 コースターにロックグラスが置かれた。彼女は長い煙をすうっと吹き、細い煙草をガラスの灰皿で丁寧に潰した。煙が収まると、彼女は両手の指先でグラスに触れ、呟くような低い声で言った。

「大陸から男が来るわ」

 氷がからりと鳴り、カンパリの赤が光った。他人事のような口調の中に、冷たく乾いた響きがあった。俺は少し背筋を伸ばし、彼女に身体を向けた。彼女は平板な声で続けた。

「名前は崔。あたしは彼に会わなくちゃいけない」

 俺は続きを待った。次の言葉は出てこなかった。俺は訊ねた。

「それで?」

「あなたに来てほしい」

 俺は彼女を見た。彼女は表情を変えずに氷を見ていた。俺は言葉の意味を考え、頭の中でいくつかの要素を天秤にかけ、訊いた。

「条件と報酬は?」

 彼女は片頬でふっと笑った。

「相変わらず話が早いわね」

 赤い液体に口をつけ、グラスをコースターに置き直した。僅かに口を開け、人差し指の先で唇を拭い、すっと息を吸って、少し早い口調で話し始めた。

「あたしは崔と会う。尖沙咀(ツィムサーチョイ)かどこかの店に呼ぶつもりでいるわ。あなたはそこにいてほしい。崔を牽制したいの」

 氷を見つめ、彼女は続けた。

「崔は手下を連れてくるわ。二人か三人、そんなところだと思う。平和な話し合いで終わるといいけれど、そうはならないかもしれない」

 ふっと息をつき、グラスを揺らした。

「アイツらが何かをしようとしたら、あたしに手を出させないようにしてほしいの。ボディーガードってとこね」

 横目でちらりと俺を見て、氷に視線を戻した。

「会合が無事に終われば、あなたの仕事は終わり。何かがあってもなくても、満額を支払うわ。支払いはいつもの通り。金額は――」

 彼女は報酬を告げた。妥当な金額だった。


 カウンターの木目に這わせていた指を止め、眉を上げて視線を横に流し、彼女は訊ねた。

「なにか訊いておきたいことはある?」

 俺は首を振った。彼女は軽く頷き、リキュールを口に含み、グラスの底を薬指で支えて氷を回した。

「それじゃ、仕事の話は――」

 グラスを傾け、水滴に向かって囁くように言った。

「これでおしまい」

ゆっくりと頭を後ろに倒し、ふうっと長い息を吐いて、残った息で天井に向かって呟いた。

「楽しい話じゃないわね」

 しばらくの間、彼女はそのまま天井を見つめていた。赤い照明が顎骨の曲線を照らし、喉元と鎖骨に影を作った。流れた髪から薄紅色の耳が現れ、三日月のピアスが耳の端で銀色に揺らめいた。


 やがて彼女は頭を戻し、息をついて首を振った。非対称に捻れたハートのネックレスが、胸の前で光を揺らした。彼女は両腕を頭上に掲げて指を絡め、胸を突き出して背中を反らせ、眉をひそめて瞼を閉じ、ん、と声を出して伸びをした。上半身を横に倒して脇を伸ばし、手の甲を返して腕を前に押し出し、背骨を丸めて肩甲骨を広げ、くたっと力を抜いてカウンターに突っ伏した。唇から小さな声が漏れ、グラスハンガーの照明に照らされて髪に光の輪ができた。

 彼女はうつ伏せたまましばらくぐったりと動かなかったが、やがて顔を上げ、バーテンダーに何かを言い、またカウンターに突っ伏し、上体をごろごろと左右に動かし始めた。バーテンダーは片頬を上げて頷き、フロアに出てきて、壁際の空いたテーブルとスツールをどかし始めた。いつものこと、といったような慣れた動きだった。


 充分な空間ができると、彼女は動きを止めてゆっくりと上体を起こし、残っていたカンパリを飲み干して振り返り、よいしょ、と小さく呟いてフロアに降りた。バーテンダーはカウンターの奥に消え、店内の音量が上がった。彼女は音楽に合わせるように何度か大きく頷き、重心を沈めて身体を揺らし始めた。

俺はしばらく彼女を眺め、カウンターの酒と煙草に戻った。バーテンダーもカウンターに戻ってきて、自分のためにビールを注いで飲み、愉快そうに笑いながら泡のついたグラスを洗った。俺も苦笑し、溶けかけたフローズン・ダイキリを口に運んだ。ショーン・ポール、キャット・デルーナ、フロー・ライダー、リアーナ。確かに、踊るにはちょうどいい音楽だった。

 しばらくしてミッシェルが戻ってきた。カウンターに肘をついて酒を頼み、ショットグラスを手に俺を眺めた。なかなか面白い目つきだった。俺はもう一度苦笑し、バーテンダーに酒を頼み、グラン・マルニエを口に放り込み、フロアに降りた。


 ケリー・ローランド、アシャンティ、ノトーリアス・B.I.G.、ネリー。久し振りの感覚だったが、悪くはなかった。ジェイ・ショーン、ニーヨ、ウェイン・ワンダー、ケヴィン・リトル。鏡越しの照明に照らされて、彼女の影が揺れていた。アリシア・キーズ、ブラック・アイド・ピーズ、ビヨンセ、デズリー、トゥイスタ・フィーチャリング・フェイス・エヴァンス。音楽は水銀のように流れ、シャンパングラスの中を夜が通り過ぎていった。ジュークボックスではコンパクト・ディスクがゆっくりと回り、構造色の光を闇に散らしていた。

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