3…中環
仕事の翌日はホテルのプールで泳ぎ、中環のサロンでマッサージを受けることにしている。自分に許している贅沢のひとつだ。
エレベーターで十七階に上がり、受付を済ませた。ロビーのソファで香りのよい茶を飲み、清潔な更衣室でゆったりとしたガウンに着替えた。よろしくお願いします、とふっくらした顔の施術師が現れ、個室に案内された。
照度を落とした室内は深い茶色で統一され、間接照明の穏やかな光が床と壁面を照らしていた。控えめな音量で『ジムノペディ』が流れ、柑橘と樹木の匂いの香が焚かれていた。アロマテラピーに陰陽五行の考え方を取り入れて調香された香りなんですよ、と施術師が説明してくれた。
ベッドに横たわり、マッサージが始まった。肌触りのよいオイルが身体に広げられ、丸く温かな指と掌で筋肉と腱の緊張が解かれていく。照度がさらに落とされ、俺は沈み込むような眠気を感じ始めた。
眠気を感じるときはいつも、サリンジャーの文章を思い出す。眠気について書かれた、美しい文章だ。いつか俺にもあんな眠気が訪れるんじゃないかと思うこともあるが、残念ながらそんな日は来ないだろう。機能を破壊する側の人間に訪れる性質の眠気ではない。
施術師に言わせると、俺の身体は珍しい強張り方をしているらしい。狩りをしたあとの黒豹はこういう風になるんじゃないでしょうか、と彼女は首をかしげる。なかなか面白い喩えだ。
なにか格闘技をなさっているんですか、と訊かれたこともある。よく鍛えられていらっしゃいますし、余分な脂肪もついていませんし。ボクシングをやっているんだよ、と答えておいた。完全な嘘ではない。気が向いたときには上環のジムでスピード・バッグを叩いている。気が向くことは滅多にないが。
実際、アスリートと大差ない仕事だと思っている。彼らは夢を与えるが、俺は何も与えない。違いはそこにある。
仕事柄というわけではないが、人体の解剖図をよく眺める。ときどきはスケッチブックに模写もしてみる。一番好きなのは縫工筋だ。骨盤の上前腸骨棘に始まり、大腿部を斜めに横切って脛骨粗面内側に終わる、螺旋を描いた曲線が美しい。人間の身体はよくできている。全体が整っていて、部分が有機的に結合しており、無駄がない。
壊れるのも簡単だ。〇・四五インチの鉛玉ひとつで生命活動は停止するし、燃やせば灰になるだけだ。
ときどき中央図書館を訪れ、気の向くままに本を読んで過ごす。図書館の静けさが好きだ。香港でも図書館と墓地だけはいつも静かだ。実際、似たような場所なのだろう。書棚に並んだ書名と、墓石に刻まれた墓碑銘。なんの違いがあるだろうか。
サリンジャーの他にはハメットやヘミングウェイを読む。キャロルやドイル、いくらかの現代詩、古詩やギリシア悲劇もいい。長いものは好きじゃない。短いものが好きだ。短さは不足を意味しない。逆も真だろう。
簡潔とは洗練のことだ。素朴であるとは程遠い。重要なのは、切り詰めることだ。必要か、不要か。それがすべてだ。
シンプルに書くこと。正確であること。具象と動態。ヘミングウェイの氷山。多を含む一を探すこと。
運と気質が世を支配する。誰かがそんなことを言っていた。俺もそう思う。運と気質に従って、ある者は小説家になり、ある者は殺し屋になる。俺は後者だった。
留学先のカリフォルニアで銃の扱いを覚えた。他には何も学ばなかった。香港に戻ってしばらく働き、それからミッシェルと出会った。俺が求めていたのは変化だった。彼女が求めていたのは新しいパートナーだった。話は五分でまとまった。俺は生命保険の勧誘をやめ、殺し屋になった。
彼女について多くは知らない。知りたいとも思わない。知る必要がないからだ。
名前はミッシェル。本名ではない。夜の匂いのする女だ。裏の世界にも顔が利く。依頼人との交渉から後処理まで、すべて彼女が手配してくれる。おかげで俺は何も考えなくていい。ありがたい話だ。
拳銃も彼女が調達してくれた。M1911。悪くない銃だ。木製のグリップが手に馴染む。俺に弾数は必要ない。精度と強度があればいい。
そんなことを考えているうちに、マッサージが終わった。ほぐし甲斐がありましたよ、身体が軽くなったんじゃありませんか、と施術師は微笑む。甲斐があったなら何よりだ。俺は礼を言い、彼女が出してくれた普洱茶を飲み、店を出て部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。眠りはすぐに訪れた。夢を見ることもない、完全なブラック・アウトだ。




