2…旺角
「誕生日パーティーにご招待するわ」
一呼吸分の沈黙のあと、暗い部屋にミッシェルの声が流れ始めた。ノイズの向こうで低く囁く、やわらかで物憂げな声音。微かに大陸の訛りが残っている。俺はクリップライトを点けて灰皿を引き寄せ、メッセージの続きを聴き直した。
「五月一日、午前零時。旺角長沙街、紅樓飯店。招待状は追って送るわ。ゲストは六人。大切なお友達だから、プレゼントを忘れないでね」
それじゃまたね、と邪気のない挨拶を残して、メッセージは終わった。ミッシェルからの依頼はいつもそんな風に入る。幾分趣味の悪いユーモアには苦笑するが、嫌いではない。彼女なりの遊び心があるのだろう。
時計を見た。午後九時半。充分な時間があった。
カフェインの黒い匂いを吸い込み、机の上の招待状を眺め直した。日時と場所、地図と見取図、ゲストの特徴。認識に間違いはなかった。俺は椅子の背にもたれ、目を閉じてイメージを始めた。移動、入店、店内の配置、位置関係、パーティーの始まり、行動と反応、パーティーの終わり、そして立ち去るまで。
何通りかのシミュレーションをして、イメージが整った。俺は目を開け、メッセージを消して、招待状をシュレッダーにかけた。真空管に灯を入れ、レコードに針を落とし、引き出しから工具と清掃用品を取り出して、机に向かってプレゼントの最後の点検を始めた。
パーツを取り外し、オイルを吹きつけ、ウェスとブラシで念入りに磨いていく。スライドを引き、手応えと重みを感じながら、スプリングの挙動を確かめる。スピーカーではバンドネオンが昏く喘ぎ、机の上ではかちゃかちゃと黒く冷たい金属音が鳴っていた。
点検は終わった。狂いはなかった。時計を見た。午後十時半。正確な時間感覚だった。俺はウェスを捨て、工具を片づけ、台所で手を洗った。水を二杯飲み、机に戻り、煙草に火を点けた。
結局のところ、仕事だからとしか言いようがない。需要に対して供給がある。成果に対して報酬がある。それだけだ。俺はただ、指定された日時に指定された場所に行き、定められた業務を良心的に遂行するだけだ。その単純さが性に合っている。
サイレンが鳴り、暗い窓を赤く照らした。俺は煙草を消し、懐にプレゼントを隠し、ジャケットを羽織り、レコードを止め、電気を消して部屋を出た。外には雨が降り始めていた。
灣仔を出発したバスは、湾岸地帯を過ぎてクロス・ハーバー・トンネルに入り、海底をくぐって九龍半島に抜け、加士居道を経由して六車線の彌敦道を北に向かった。俺はバスの振動を感じながら、窓の外をぼんやりと眺めていた。
香港は色彩の街だ。雨の夜には特に映える。信号灯、照明灯、前照灯、尾灯。そして無数のネオンサインが、濡れた街路に光を投げる。赤と緑、黄と紫、橙と青、黒と金。対立する雑多な色彩が雨の中で溶け合い、反射し、複雑に調和する。フランスの風景は印象派を生んだ。香港は何を生むんだろうか。
油麻地でバスを降り、碧街から砵蘭街に入った。飲食街を抜け、小道を横切り、ミニバスとタクシーが水沫を上げる小路を歩いていった。雀荘、芬蘭浴、按摩店。蛍光色の光の下を男と女が行き交い、雨音に混じって気の狂った男の唸り声が聞こえる。やがて小公園が見え、俺は交差点を左に曲がった。夜總會の電飾看板が通りを赤く染めていた。
油が爆ぜる音がして、厨房で炎が上がった。飯店の夜は終わりに近づいていたが、いくつかの丸テーブルでは客たちが何かを笑い合っていた。俺は立ち込める蒸気とざわめきの中を抜け、厨房の脇を通ってゲストの待つ奥の個室へと向かっていった。薄暗い通路で、汚れた調理衣の店員とすれ違った。くたびれた彼の目は、何も見てはいなかった。
個室の隣に小部屋があった。俺はカーテンを開けて小部屋に入り、煙草に火を点けた。ひんやりとした静かな部屋だった。煙を深く吸い込んで目を閉じ、外に降る雨を思った。雨の音は人の心を落ち着かせる。原初の記憶に結びついているんだそうだ。もしかしたら、狩猟民だった頃の記憶も大脳の奥に残っているのかもしれない。煙草の葉が赤く燃えて爆ぜ、チリチリと音を立てる。
壁の向こうで歓声が上がり、牌が崩された。俺は目を開け、煙草を床に落とし、革靴の底で踏み潰し、懐からプレゼントを取り出した。鳥籠の鳥が不思議そうに首をかしげた。カーテンを開け、隣の部屋に向かった。廊下の電灯に照らされて、二挺の拳銃が黒く光った。
部屋は煙草の煙と男たちの汗の匂いで満たされていた。手前の若い男が俺に気づいて立ち上がった。俺は男の腹に狙いを定めて引き金をひいた。乾いた破裂音と共に花柄のシャツが赤く染まり、刺青の入った腕が宙を掴んでテーブルに崩れた。茶杯が床に落ちて割れ、透明な音を響かせた。
殺気と恐慌が部屋に広がった。慌てて立ち上がろうとする男たちに、俺は銃弾を撃ち込んでいった。胸、腹、頸部、頭部。撃針が雷管を叩き、銃口で焔光が渦を巻く。怒号、悲鳴、混乱、恐怖。薬莢が弾け、卓が倒れ、水槽が砕け、跳弾が壁で火花を散らす。鉛の弾頭が皮膚を破り、肉をえぐり、骨を砕き、内臓を引き裂き、部屋中に血と体液を撒き散らす。天井からぶら下がった電球が暴れ、乱れ狂う肉体の影を映す。捻れ、回り、踊り、跳ね、肉塊となって崩れていく肉体の影を。
銃弾を撃ち終えた部屋には静寂が残り、空調だけがカタカタと音を立てていた。パーティーは終わった。口を利く者はいなかった。濡れた床にはガラスの破片が散らばり、居場所をなくした金魚が酸素を求めてぱくぱくともがいていた。男の指から牌がこぼれ、血だまりに落ちて波紋を広げた。
俺は硝煙と血の匂いを吸い込み、熱の残る拳銃をホルスターに収めた。
「ハッピー・バースデー」
静まり返った空間に呟きを残し、電気を消して部屋を出た。外には雨が降り続いていた。




