液晶越しの「正義」
都内のIT企業で働く佐々木は帰宅後のルーティンとして匿名掲示板の「自動車板」を開く。彼の楽しみは、特定のメーカーや車種を徹底的に叩くことだ。
その夜、彼の指は激しく動いた。ターゲットは韓国の高級車ブランド「ジェネシス」。
「またパクリか」
「こんなの恥ずかしくて公道に出せないだろ」
「走る粗大ゴミ」
佐々木は一度もジェネシスの車に乗ったことはない。実物すら数回しか見たことがない。しかし、ネットに溢れる「韓国車はダメだ」という言説こそが、彼にとっての「真実」だった。彼は自らを、車を愛するがゆえに偽物を許さない「審判者」だと思い込んでいた。
ある日、佐々木は知人の結婚式に出席する為、地方の山間部にあるリゾートホテルに向かっていた。自分の愛車を走らせていた時、不運にも峠道でエンジンから煙をあげ、立ち往生してしまう。
時刻は夕暮れ、JAFもすぐには来られない。途方に暮れる彼の前に、1台のセダンが静かに止まった。彫刻のようにエッジの効いたライト、巨大なクレストグリル。
―ジェネシス・G80だった。
「困っていますか?次の町まで乗せていきましょう」
降りてきたのは、初老の紳士だった。佐々木は一瞬躊躇った。自分が毎日ネットで「粗大ごみ」と罵倒している車だ。しかし、背に腹は代えられない。彼は屈辱を感じながらも、その助手席に滑り込んだ。
ドア閉めた瞬間、佐々木の脳内にある「ネットの知識」が崩れ始めた。車内を包むのは、上質なナッパレザーの香りと、静寂。スイッチ一つの操作感、シートの包容力、そして加速した瞬間の滑らかさ。彼が掲示板に書き込んでいた「安っぽい」「スカスカ」という言葉が、この空間には見当たらなかった。
紳士は穏やかに言った。
「この車、よくネットで叩かれていますよね。私も知っています。」
佐々木は息を呑んだ。
「でもね、道具っていうのは、誰が作ったかではなく、どう作られたかが全てだと思うんです。私はこれまでドイツ車も日本車も乗ってきましたが、今、この車が一番しっくりくるんですよ」
目的地の駅に着くまでの30分間、佐々木は一言も発することが出来なかった。紳士が去った後、彼は一人ホームでスマートフォンを取り出した。いつもの掲示板。そこには、自分が数時間前に立てた「ジェネシス、まだ生きてたの?(笑)」というスレッドが、悪意ある書き込みで埋め尽くされている。
「ゴミ車」
「買った奴の顔が見たい」
その文字の羅列を見た時、佐々木を襲ったのは、これまでにない嫌悪感だった。
自分は今まで、何を見ていたのか。画面の向こう側の、自分と同じように何も知らない誰かが書いた言葉を、自分の言葉として叫んでいただけではないか。
翌週、佐々木の指は掲示板ではなく、ブラウザの検索窓の上にあった。
「ジェネシス 試乗 予約」
彼はまだ、その車を好きになった訳では無い。しかし、もう「誰かの偏見」で世界を見るのはやめようと決めていた。パソコンを閉じ、部屋の明かりを消すと、画面の向こう側の喧騒が遠い世界の出来事のように思えた…




