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第2話 壁のない空間

神谷は残った。 通常、彼は六時前には帰っていた。フォルダを残し、ときに返答を必要としない観察のメモを置 き、そして去る。今日は彼は窓際に座り、すでに冷めきった茶の入ったカップを手に、雨を見てい た。その表情は、荒田が三年間で読み取ることを学んだものだった――ラベルのないデータを読 むのとほぼ同じように:ゆっくりと、常に誤る可能性を含んだまま。 教授は何かを考えていた。 それ自体は珍しいことではなかった。しかし今日は彼は何か具体的なことを考えており、それは 感じ取れた――空の部屋と、誰かがついさっきまでいた部屋の違いのように、視覚的には区別が つかないにもかかわらず。まるで空間が存在ではなく意図の痕跡を保持しているかのように―― そしてその意図はここにあった。密度を持ち、集中しており、明確な対象を持たないまま。 「ムメンが他と違う点を知っているか?」と神谷は、自分と窓の間の空間に向かって言った。 しおりは写真から顔を上げた。 「見られていること」と彼女は答えた。 「違う」神谷は振り向かなかった。「他のものも見られている。ナガカゲも見られている。トネは聞 かれている。シラボウは……いや、シラボウは違うかもしれないが。それは別の話だ」 「じゃあ何が違うの?」 神谷はカップを窓枠に置いた。 「他のものは同時に一つの場所に存在する。ナガカゲは森の中、特定の地点、特定の瞬間にあ る。トネは聞かれる場所に、聞かれる瞬間にある。彼らは固定されている。物体が座標に固定さ れるように。言葉が、それが発せられる言語に固定されるように」 彼は黙った。荒田は待った。 「だがムメンは」神谷は続けた。「固定されていない」 説明には約一時間かかった。 神谷がゆっくり話していたわけではない。彼は言葉が次の言葉に追いつかれる前に理解可能に なる速度で話していた。ただ内容が、最初の提示で通常のカテゴリーに収まらなかった――異な るスケールで描かれた絵が枠に収まらないように。聞き、保留し、戻る必要があった。 神谷は言った:記録された三十七件のムメンのうち、二十二件が同時に発生していた。 荒田は最初、それが何を意味するのか理解できなかった。 二十二件。一日。同じ時間。異なる場所――隣接しておらず、観測間に残された時間で移動でき るような距離的連続性もない。同じものを互いに写したような類似ではなく、細部まで一致した同 一性:同じ高さ、同じ位置、同じ視角。まるで異なる都市にいる二十二人が同じ対象を同時に観 察していたかのように。 一つの対象。二十二の場所。同時。 「それは不可能だ」と荒田は言った。 そしてすぐに、自分が言ってはいけないことを言ったと理解した。不作法や誤りだったからではな い。ただその言葉――不可能――は、それが正しいとされる座標系を前提としていた。そしてここ ではその座標系は明らかに異なっていた。 「三軸と一つの時間軸の空間の枠内では不可能だ」神谷は穏やかに同意した。「そうだ。まさにそ れを言っている」 しおりは立ち上がり、壁の地図へ向かった。 大きな地図――本州北部、色分けされた印。赤はナガカゲ。青はシラボウ。黄はトネ。黒はムメ ン。黒は三十七あり、一見して明確なパターンを形成していなかった。だが長く見れば――点で はなく距離を見る視線で見れば――配置には偶然とは言えないものが現れた。 「同時なのはどれくらい?」 「三十七のうち二十二。しかも一つの日付ではない。複数の日付、それぞれに複数の同時観測」 しおりは答えなかった。地図を見ていた。 「なら彼は移動していない」と彼女はゆっくり言った。「ただ……存在している。複数の地点に」 「そうだ」 「同時に」 「そうだ」 「それは移動じゃない。別の言葉だ」 「別の概念だ」神谷は訂正した。「言葉は見つかる。概念の方が難しい――まず受け入れる必要 がある:存在は速く移動するから複数の場所を占めるのではない。場所の差異が……ある意味 で制約として存在しないからだ」 荒田はそれを記録に書いた。長く見た。括弧で付記した:(通常幾何の適用限界)。そして疑問符 を消した。ここでは疑問はすでに適切ではなかった。 夜九時、平田から電話があった。 荒田は三年間彼を知っていた――森林管理人、津軽から二時間の場所に住み、森で見つけたも のや伝え聞いたものを報告する。信頼できる情報源。平坦な声。仕事上の異常に慣れ、それに 対して抑制された話し方を身につけた人物。 今、その声には抑揚があった。 「三日前、少年が森に入った」平田は言った。「今朝見つかった」 「見つかった?」 「生きている。身体的損傷なし。入口から二キロの道路脇に座っていた」 荒田は次をすでに知っていたが、それでも聞いた。 「状態は?」 「何も覚えていない」間。正確に言葉にできない前の間。「三日分ではない。全部だ。名前も知ら ない。母親も認識しない。荒田さん――壁を見て笑っている」 荒田は受話器を置いた。記録に書いた:シラボウ。三十二件目。先行観測確認中。さらに別行に :年齢――推定十二歳。 なぜそれを別に書いたかは分からなかった。ただ書いた。データはときに自ら形式を選ぶ。 夜、しおりは記録していないものを見せた。 隠していたわけではない。いくつかの事象は文書になるまで時間を要する――最初は形式も分 類も位置も持たない。彼女はノートPCを開き、ファイルを出して画面を向けた。 写真は津軽ではなかった。 普通の都市の夕方。街灯。ぼやけた通行人。その奥、二つの建物の間に――垂直の影。同じ。 起源なし。 「撮るつもりじゃなかった」しおりは言った。「カフェの窓から街を撮っていた。これは一枚だけに現 れた」 「いつ気づいた?」 「今日。持ってくる前に確認したとき」間。「津軽で使った同じカード。消してなかった。街の写真は 三日前。森は一昨日」 荒田は見た。 「都市のナガカゲ」 「あるいはナガカゲはどこにでもある」しおりは言った。「ただ私たちが正しいタイミングで見ていな かっただけ」 十時に帰るはずだった神谷は帰らなかった。 荒田は写真を見せた。神谷は三秒見た。正確に三秒。 「これはナガカゲではない」 「違う?」 「ナガカゲは痕跡だ。残留形。雪に残る跡のようなもの――存在の痕跡であって存在そのもので はない」彼はPCを返した。「これは痕跡ではない。現在の存在だ」 「ならムメンだ」 「これは投影だ」神谷は眼鏡を外し拭いた。「ムメンは複数の地点に同時に存在する――それは 分かっている。だがこれは別だ。彼は複数の地点だけでなく、複数の層に存在する」 「層」 「正確ではない言葉だが」彼は言った。「空間を透明なページの束と考えろ。各ページが別の層。 別の現実。我々は一つにいる。森は別。夢は第三。悪夢は第四。底のない層」 「ムメンは全部を見る」 「全部に存在する」 荒田はそれをモデルとして保持しようとした。できなかった。 沈黙は変わった。 それは空白ではなく、すでに定着した理解だった。そしてそれが問題だった。 もしムメンが複数層に存在するなら――都市に痕跡がないのは安全ではない。観測の失敗だ。 荒田は窓を見た。 街灯。濡れた舗装。建物の間の隙間。 「一つ理解すべきことがある」神谷は言った。 「何?」 「我々は彼を観測している」 間。 「観測は相互作用だ。測定が対象を変えるように。ムメンは物理ではない」 「もう起きてる?」 神谷は写真を見た。 「三日前の写真だ」 間。 「つまり、始まる前から起きていた」 荒田は新しい文書を開いた。 名前は付けなかった。 一行目: 複数の空間点と複数の現実層に同時に存在する存在は、単一の観測形態に制限されない。 二行目: それはすでに我々を知っている。 三行目は空白。 四分間、何もなかった。 ほとんど安心だった。 ほとんど。 三行目: 少年は壁を見て笑っている。 閉じた。 地図。三十七の黒点。 観測されていない場所は不明。 なぜなら収集不可能だから。 観測の不在は存在の不在の証明ではない。 不一致の記録は閉じられていた。 三十八ページ。 三十二件目。 無名の文書。 外には何もなかった。 それはただ――彼が見ていない方向を見ていたということを意味していた。

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