第67話
翌日、生憎の小雨が降っていた。ぱらぱらと水滴が一粒ずつ確認できるような雨だった。
コンビニで買っておいたパンで朝食を済ませて、珠子はビジネスホテルを出た。
駅前まで行き、大学構内まで行くバスに乗車する。山道をトコトコと走るバスの車内は12月25日から始まる冬期休暇を間近にして、学生の数は少ない。余裕のある者はもうすでに休暇に入っているのだろう。
車窓から流れる景色を眺めながら、珠子は事件が報道されたときのことを思い出していた。
警察が来ない代わりに大学の友人たちが心配して、中には興味半分で珠子に近づいた。
―…大丈夫?捕まったのって、あの人だよね。
―…怖いよね、まさか親しくしていた人があんな事件を起こしたなんて。
―…珠子は何も知らなかったんでしょう?裏切りだよ、これは。
珠子はしおらしく、頷けばいいだけだった。時に涙を零せば、健に騙された被害者の一人の出来上がりだ。
何だっていい。健との日々が、私の中でだけで守ることができれば。健のことを愛している自分だけがいれば、それでいい。
左手の指が4本になったことに関しても色々と勘繰られたが、大学を休んでいる間に実家の農作業中に器具に巻き込まれたと言いごまかした。実家に帰るつもりはなかったので、家族用のごまかし方を用意していないのが心許なかった。結果として、実際に帰らなかったので知られずに済んだ。
バスの運転手のアナウンスが、大学構内のバス停に到着することを告げる。珠子は視線を前に戻して、降りる準備を始めた。
大学の広大な駐車場には先日降った雪で、相変わらず雪像が作られている。もはや彫刻科の伝統なのだろう。
ぴちゃ、ぴちゃ、と雨で湿った雪を踏みしめて、歩を進める。大学構内はしんと静かで、耳が痛くなるようだった。
珠子は最初に絵画科の実習棟へと向かった。扉はまだ施錠されておらず、難なく室内に入ることができた。
絵画展の宣伝ポスターが記憶と違わず、溢れるように壁中に貼られている。中には珠子が最後に出した、あの画展のポスターもあった。懐かしく思う。
リノリウムの床を歩くと、濡れた靴跡が後をついてきた。途中、何人かの後輩とすれ違う。
「こんにちは~。」
「こんにちは。」
挨拶を交わしこそするが、それだけだ。もう、珠子のことを知る学生はいない。清々しさを感じつつ、ふと思い立って自らの作業場があった場所へと向かった。
キイ、と軋ませながら扉を開けると、ストーブで温まった空気に触れた。油絵の具や紙の香りが鼻孔をくすぐって、ノスタルジーな気分に浸る。一番最初に忘れるのが音や声だとしたら、一番最後まで覚えてるのは香りだということはどうやら本当らしい。
「健は、油絵の具は脂肪の香りって言っていたっけ。」
微笑ましく、呟きながら珠子は自分の作業場があった場所へと向かった。そこには当たり前だが、後輩の作業場があった。
「人が変われば、変わるなー。」
雑然としていた珠子の作業場とは違い、シンプルで機能性を重視された作業場になっていた。主の几帳面さがうかがえる、筆の並びやキャンバスの片付け方だった。
珠子は作業場を出ると、当時、所属していたゼミの先生の研究室へと向かった。
ノックを三回繰り返すと、のんびりとした声で入室を促された。
「おや…。君は確かー、」
「こんにちは、お久しぶりです。桜井珠子です。」
「そうだ、そうだ。桜井さんだ。髪の毛が伸びて、わからなかったよ。」
ベリーショートだった髪の毛は伸び、珠子は今、ボブカットにしている。
「こんにちは。元気だったかい?」
「はい。先生も、お元気そうで安心しました。」
パイプ椅子を勧められて座ると、先生は逆にお茶の用意に席を立った。
「あ、お構いなく。」
「まあまあ、いいじゃないか。年寄りの茶くみに付き合ってくれよ。」
出された熱いお茶を啜りながら、思い出話に花が咲く。
「桜井さんが提出した卒業制作は、面白かったね。ええと…、死体画の連作。」
健との別れの後、珠子は作品で自分を偽ることをやめた。露わにした本性の絵画にはありがたいことに、先生のような感想を抱いてくれる人がいたのは驚きだった。
「残酷で、グロテスクなのに、妙に艶めかしいモチーフだと思ったよ。」
「ありがとうございます。私の目のおかげで生々しさは抑えられている、って当時、先生は言ってくれましたね。」
珠子の目には赤く濡れていると思った絵の具も、健常者の目にはそれは青に近い色らしい。全てを詳らかに描くより、ワンクッションが置かれて逆に芸術性の高さを評価された。
「私の目、お荷物でしかないと思っていたから嬉しかった。」
珠子はそっと自分の瞼に触れる。随分と苦しめられたが、最愛のモチーフを描くには最適だったのだ。本当に、人生がどう転ぶかわからない。
「特に木原先生には、よく思われていなかったようでしたから。」
「木原先生…。木原先生ね…。」
先生の柔らかい表情に、陰りがさす。
「木原先生の件は、本当に申し訳なかった。盗作など…、する人だったとは知らずに。」
「…。」
珠子は静かにお茶を飲む。ほうじ茶の香ばしい湯気が、顔の皮膚に優しく触れる。
「恨みはたくさん買っていたが、まさかあんな死に方をするとは思わなかったよ。」
わざと、冗談のように先生は言う。それは、関係者でもある珠子に気遣ってのことだった。
「そうですね…。驚きました。」
そっと視線を、窓の外に向ける。珠子の視線の先には、陶芸科が利用していた実習棟があった。
健の自白後、殺害に使われたガス窯のある陶芸科への入学者は急激に減り、今はその門扉は閉ざされていた。曰くつきのガス窯自体、もう無い。
「…今も、絵は描いているのかな。」
話題を変えるように、先生は珠子に問う。
「描いてますよ。」
それから、珠子はフィンランドでの生活のことを話し始めるのだった。




