第65話
ピピピピピピピー…、
目覚まし時計が鳴って休日の朝、やっと目が覚めた。
フィンランド、ラップランド地方の町にあるホテルで珠子は今、働いている。語学学校でフィンランドの言葉を習い、田舎の町では日本語も扱えるとしてありがたいことに重宝されていた。
日本を発って、6年が経過しようとしていた。
それまでに家族に送ったのは、5通の年賀状だけだった。自分の住所は添えず、一方的な近況報告を書いた。
ビザの関係で一時帰国したときも、ビジネスホテルに泊まり家族や友人には会っていない。
スマートホンはフィンランドの無数にある湖に水没させてしまい、壊れたので買い換えた。
日本で関係を持った人たちと縁が切れてしまい動揺するかと思ったら、意外にもどこかほっとする自分がいて驚いた。こんなにも薄情な人間だったのかと嘆くよりも前に得た安堵感は、きっといつまでもこの胸に宿るのだろう。
健が警察に自首し、彼の所業が明るみになった。
健が殺めた人数、そして動機。当時はセンセーショナルに、事件は知れ渡ることになる。
裁判の傍聴席は連日くじを引かれるほどに人が押し寄せ、ゴシップ雑誌には健の半生などがまことしやかに書かれる始末だった。
珠子の元へも警察やら記者やら何者かが訪れる者だと思っていたが、その点、健は黙秘したようで何事もなく暮らしている。あまりにも呆気なくて、拍子抜けをするようだった。
健には、彼自身が予想した通り死刑判決を下された。
珠子が寝ぼけながらテレビを付けると、天気予報は雨を訴えている。午後から降るという雨に備えて、買い物に行っておこうと思った。
服を着替えて、身だしなみを整えるとアパートを出た。近所に住む三毛猫が道を横切っていくのを見て、日本の商店街に住み着いていた猫を思い出す。彼女はもう、寿命を迎えただろうか。
朝の市場に向かい、新鮮な野菜と魚など生鮮食品を買い求める。一人分とはいえ、重いラインナップの物ばかり買い込んでしまい若干後悔した。
国土の7割以上が森だというこの国は、木を1本伐採したら5本の苗を植えなければならない。ここじゃないどこかに行きたいと願った先に訪れたフィンランドは思いのほか、珠子という名の苗も優しく受け入れてくれた。
日本を嫌いになったわけではないが、フィンランドに訪れた理由を聞かれないのはとても楽だった。左手の4本の指に対しても、チラ、と視線を送って目を反らしてくれる。シャイで控えめな国民性にも随分と救われている。
荷物を抱え直して、空を見上げる。日本につながる空は今日、雲が厚い。天気予報が当たりそうだ。
足早に家路につき、冷蔵庫とパントリーに食品をしまう。昼食は帰路の途中にあるカフェでテイクアウトしたシナモンロールだ。台所でカプチーノを淹れて一緒に食していると、窓の外から雨が降る音が静かなBGMのように聞こえてきた。
「…。」
食器を洗い、伏せながら雨音をじっくりと聞く。よく聞いていると、雨粒が木の葉に落ちる音と地面に落ちる音が微妙に違うことに気が付いた。一方は軽く弾かれて、もう一方はしんと吸い込まれるような音だった。
雨が嫌いだった。せっかく咽ずに吐き出した紫煙を、搔き消してしまうから。
午後は昼寝でもしようか。録り貯めた映画を見るのも良いかもしれない。
結局昼寝を決め込むこともできず、珠子は布団から起き出した。ペタペタと裸足で床を歩き、洗濯干し場へと続く窓サッシへと服を着込みながら向かう。軽い音を立て窓は開く。外は相変わらず雨が降っていた。
「?」
ふと耳を澄ませば、足元で子猫の甲高い声が聞こえた。見るとまだ本当に小さな八割れ模様の子猫がうずくまり、鳴いていた。周囲を見渡して、親猫らしき成猫の姿はない。珠子は子猫を抱え上げ、室内に戻った。
「体を温めた方が良いんだろうな。後は…、そうだ。ごはん。」
スマートホンのネットで処置を検索しながら慣れない動物の看護をし、珠子はしばらく様子を見ることにした。
点けっぱなしのテレビでは芸能人同士の入籍の話で持ち切りだ。恋愛の話はどうやら万国共通で、人気のあるトピックスのようだ。
愛し、愛され、共に歩むことを決めた二人のなんと健やかなことだろう。いつか子を産み、孫ができて、おじいちゃんとおばあちゃんになって、最期を共に見つめることのできる素晴らしさ。
純粋に羨ましく思った。
「あれ、おかしいな。」
珠子の頬を涙が零れて伝った。涙は熱くて、サラサラしていた。拭っても、次から次へと涙が溢れるのが不思議だった。
朝にお茶を飲んだマグカップを流しに片付けて子猫の様子を見ると、首を傾げるように子猫はこちらを見つめていた。
「近所の店に行けば、猫缶があるって聞いたっけ。」
珠子はコートを羽織り、アパートを出た。肺一杯に瑞々しい空気が流れ込んでくる。ほんの少しだが、背筋がしゃんとするようだった。
近所の個人商店まで、徒歩10分ほど。それまでの道のり、名もない小さな公園や河原がある。散歩にはちょうどいい。気付けば鼻歌を口ずさんでいた。健と一緒に見たドラマの主題歌。曲名は忘れた。
個人商店で猫缶を買い求め、アパートに帰り、子猫に早速与える。余った食材で適当に作ったごはんなどとは比較にならないほど、がっつくように食べるものだからもう少し早く買ってきてやればよかったと反省した。
台所に立ち、お湯を沸かす。熱いお茶を入れた。外出に伴い電源を切ったテレビを点けると、昼の情報番組が流れてきた。何気なしに眺めていると、健が幼いころに観てみたかったという美術館の特集を組んでいた。そこはオルゴールの美術館で、世界各国の多種多様なオルゴールが収められているらしい。
目玉は、世界最古のオルゴールだ。
どんな音色がするのだろう、意外とちっぽけなものかもしれないね、などと勝手なことを話したものだった。
珠子は、ふと布団で微睡みたくなった。健の気配を感じたくて横になる。枕に顔を埋めて深呼吸すると、安心する自分の香りと思い出に残るあの香り。煙草の煙にしては甘くて苦い、チョコレートのような香りを確かに感じるのだった。それはこの国に来たとき、初めて買った洗剤の香りだ。以降、気に入って購入を続けている。
仰向けに寝直して瞼を持ち上げたとき、天井がぐにゃりと歪んで見えた。今度は自分の涙を自覚した。もう、泣きつくしたと思っていたのに意外とそんなことはありえないものだ。
起き上がり、お気に入りのラジオに手を伸ばす。チューニングにコツがあり、音量を下げる。ざらついた音がしばらく響き、後に鮮明な人の声になった。
電話相談室を受け付けていて、悩みに答えるありきたりな番組構成。
『ー…好きな人が、大学の友人と結婚しました。好きと伝えることもできず、どうしたら忘れられるのでしょうか。』
どんな形であれ、好きな人を明言ができて羨ましいと思う。健はきっと、望まないから。
珠子はラジオに電源を切った。
部屋の掃除をしたり、本を読んだりを繰り返しているうちに時間は過ぎ、もう夕方になってしまった。
「…!」
珠子は子猫の鳴き声が聞こえないことに気が付いて、様子を見るとその小さな体は冷たくなっていた。少しの間、体をさすってみたが二度とその愛らしい声を聞かせてはくれなかった。
体が冷えてしまったのかもしれない。ごはんが違う器官に入ってしまったのかもしれない。
何かを間違えたのだろう。
私は死体が好きだ。魂のない器を自分勝手に愛でるのは、背徳的で背筋がぞくぞくする。
だが、ここ最近になって心境の変化があった。好きと言う気持ちが激しく狂おしいほどの性愛から、友愛に似た穏やかで生温く心地の良いものに変わったことに気が付いたのだ。
青春時代の心には常に死体があり、その存在は大きい、…いや、大きすぎた。だから私は、苦しかった。自分の首を絞めていていたのは、自分だ。
でも、そんな私だから健に出会え、関わることができた。絞めた首により、楽になったのも確かだった。
珠子は子猫の小さな体を抱えて、公園まで歩いた。夜の帳が下りて公園には子どもの姿はおろか、誰の気配もしない。
一番大きな木の根元を、持参したスコップで穴を掘る。小さな、小さな穴でよかった。冷たい土だったが、仕方なかった。土に還らないと、この子猫はまためぐることはできないのだから。
アパートの部屋から手折ってきたドライフラワーの花を一輪、そのささやかな墓に添えた。
「…ごめんね。」
ごめん。私があなたを拾ったから、死を急がせてしまった。
愛されなくてもよかった。愛せなくてもよかったはずなのに、望んでしまった。求めてしまった。
珠子は土に汚れた両手で、顔を覆った。四本になった左手の隙間から嗚咽が漏れる。
会いたいと、思ってしまった。
「ごめん…、なさい。」
その日の夜。また夢を見た。相変わらず白と黒の世界だったけれど、健が笑ってくれた。そして大きな手のひらを珠子の頭にのせて、撫でてくれた。
信じていないはずの神様に願う。
笑わないで。そんな優しい表情をしないでほしい。
深夜に目が覚めて、窓から白い明かりがさしていることに気が付く。
珠子は行き場のない感情に唆されて、親指の爪を齧る。爪はギザギザに噛み千切られて、やがて血が滲んだ。
台所の鍋や調理器具、三毛猫、そして死体の背景にすら健の姿を見つけてしまう。
だけど。
それらすべてが、愛おしかった。
紫のある物すべてを愛せる恋があることを、珠子は初めて知った。




