第64話
台所で食器や湯呑を洗いながら、珠子は考えていた。
健は、私のために人を殺してくれた。ならば、私は健のために何ができるだろう。
生ごみをまとめながら、珠子は木原の両耳も捨てる。手元にあっても困るし、健ならきっと「捨てちゃえ」と言うだろう。
そっと振り返って、眠る健を見た。
健が次に言うだろう言葉を予測できるぐらいに、一緒にいた。この気持ちが恋なのか悩んだこともあった。だけど今は、胸を張って言える。
健に対するこの想いは、愛だ。
彼を世界中が指をさして、責めて、死刑にしようとも、もうなんだっていい。私は健を愛している。自分が抱く想いの名前を知って、珠子は何でもできそうな万能感を得た。
そう。何だって、できる。
珠子は台所に戻ると、流しの下の棚を開けた。そして包丁を取り出して、眺めながら考える。
私の一部をあげよう。絵描きとして、命の次に大事な手にしようか。全部だと、健に持って行ってもらえないかもしれない。指のサイズ感なら、彼の重荷にならないと思う。
健にふさわしいのは、どの指だろう。
赤い糸が結ばれるという小指にしようか。だけど、糸なんていつ切れるかわからない。そもそも結ばれるはずの小指をあげたら、結局は結ばれることなんてないんじゃね?
うーん、と悩み、それならばと珠子は妙案を思いついた。
左手の薬指なら、どうだろうか。
永遠の愛を誓う指だ。健を警察に見送った後、珠子は誰かを愛する予定はない。
指輪を用意するよりも、私たちらしい。
「決めた。」
指に止血用の糸をきつくまく。珠子は鈍色に輝く包丁を握り直して、左手の薬指に添えた。そして、力を込めた。
「…と言うわけで、プレゼント。」
珠子は健の表情を窺って、首を傾げる。健は無表情だった。
「ごめん。…いらなかった?」
「…。」
健はそっと珠子の左手を取る。
「痛かったでしょ。」
珠子の指の切り口に触れないように、健は空気をなぞった。
「痛いよ。今でも、脂汗が止まらないぐらい。」
無理をして笑う珠子の額には確かに、うっすらと汗が浮かんでいる。
「ありがとう、たまちゃん。」
健の目色には、涙が滲んでいた。声を震わせながら、鼻をすする音も響く。
「たまちゃん。…たまちゃん、大好きだよ。」
「私も、健のことが大好きよ。」
珠子は健を抱きしめて、健もまた珠子を抱きしめた。
「愛してる。ごめんね。」
「何でよ。胸張って言ってよ。」
「だって、困らせちゃうでしょ。」
自分よりも背の高い健が泣くと、まるで雨が降るようだと思った。温かい、まるで慈雨だ。
「愛しい。誰よりも愛しい、たまちゃん。食べちゃいたい。」
「食べてもいいよ。」
健の血肉になれるなら、そんな人生も一興だ。
「…食べないよ。生きていて、ほしいから。」
「私が死のうと思ってるの、バレた?」
珠子は健が自首して死刑になったら、彼の後を追おうと思っていた。
「何となく、わかるよ。たまちゃんは優しいから。」
「…一緒に死のうよ。このまま、二人で。」
「ダメでーす。」
「どうしても?」
「どうしても。」
健の確固たる意志を持った声に、珠子は落胆する。そんな珠子の頭をよしよしと撫でて、ようやく彼女の肩を押して離した。
「今、この指を食べてもいいかな。」
珠子が頷くと、健は小箱から大事そうに指を取り出した。そしてしげしげと眺めるものだから、珠子は何となく恥ずかしくなる。
「もー。早く食べちゃって!」
「そんな、もったいないでしょうに。よく見て、目に焼き付けないと。」
手のひらで転がして弾力を確かめたり、割れた爪の先の感触を健は楽しんだ。そしてようやく、健は大きく口を開けて指を食べた。
奥歯で骨をかみ砕く音が響き、咀嚼して味わって、健の喉が嚥下する。その様子を眺めながら、珠子はあることに気が付いた。
「…生だったよね?焼いたり、煮たりとかしなくてよかったの?」
「うん、いいの。」
「ええー。でもどうせなら、美味しく食べてほしかったよ。」
「そんな、火を加えたら味をそれこそ損なっちゃうよ。大丈夫、すごく美味しかった。」
肉は甘く、骨からはいい味が染み出たと健は言う。
「今まで食べた、どんな肉よりも美味しかった。」
恍惚とした表情で、健は言う。
「なら、いいけどさ。」
珠子は嬉しさに、はにかむのだった。
「…ありがとう。じゃあ、僕は行くね。」
「うん。ねえ、健…、」
ん?と健は優しく首を傾げて、珠子と視線を合わせる。
「元気でね。」
「たまちゃんも。」
そう言って、健は手を振ってゆっくりとアパートの部屋から出て行った。




