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首椿  作者: 真崎いみ
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第59話

私が、描いた絵。心を込めた。魂を込めた。

愛も、込めた健の絵。

健がいなくなっても、生きていけるように。ずっと覚えていられるように、描いたのに。

「悔しい…っ。」

珠子は作品を置く部屋の畳をむしるように、爪を立てる。ここにあの絵がないのが、つらい。

賞なんかいらない。ただ、健が生きた証を残したかっただけなのに、全て奪われてしまった。

ザリ、ザリ、と硬い畳の繊維が爪を割った。血が滲む。


一週間前。健はふらりとアパートを出て以来、戻ってこない。何も言わずに出ていくことはないだろう、と思いつつも不安で仕方なかった。


このまま、私は彼の名残すら惜しむこともできず生きていくのだろうか。

珠子は泣きながら、彼の置いた消臭剤を壁に投げた。容の蓋が割れて、透明な消臭のビーズが散らばった。

「何よ…。薄情者。」

いない健に悪態をつき、彼がそうしていたように自らが描いた死体の絵の前に寝転がる。

天井を見上げて、無意味に木目を数える。途中、顔のような染みを見つけて舌打ちをした。健の寝顔をずっと見つめてきたであろう、染みですら妬ましい。

珠子は起き上がり、コンビニのビニール袋からある銘柄の煙草を一箱とライターを取り出した。それは、健が吸った最後の煙草と同じものだった。

窓サッシをカラカラカラと音を立てて開け、ベランダに出る。二階から住宅街を見下ろしながら煙草を一本出して、火をつけた。

「…コホ、」

肺に満ちるまでも吸わないうちに、軽くむせてしまう。あの時、健が口移しで味合わせてくれた紫煙は優しかったのに。それも、彼というフィルターを通した世界だったことを知る。

何だか悔しくて、珠子は無理やり一本を吸い切った。

喫煙を終えて部屋に戻ると、スマートホンにメッセージが届いたことを知らせる表示が画面に出ていた。さやかだ。

あの日を境に、さやかから謝罪のメッセージが一日に何通も送られてきていた。珠子はその中の一通にも、返事をしていない。

会話をすることも、気を遣うのも遣われるのも、したくなかった。

謝罪をして許されたいと彼女は思っているのだろうが、そもそも眼中にない。さやかが自責の念で苦しむのも、どうでもいい。ただただ、面倒くさかった。

スマートホンをベッドの上に投げ捨てる。既読はつけたから、いいだろう。


その日の夜、夢を見た。

真っ白な天井、真っ白なカーテン。暖かい金色の光が、部屋に満ちていた。たっ、たっ、と規則正しい音を立て液体が落ちる音だけが響いていた。視線を動かして、その音は自らをチューブでつなぐ点滴だということを知った。

ああ、ここは病院なのだと珠子は気が付く。

そう思うと薬品のような香りまでもが鼻孔をくすぐるような気がするから、不思議だ。

…たまちゃん。

優しく、自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。その声は涙に滲み、少し震えていた。

たまちゃん。

もう一度、名前を呼ぶ。珠子の手のひらがふわりと人肌の体温で、温まる。

健が珠子が眠るベッドの傍らに立ち、手を握っていてくれるのだ。

なんて、なんてしあわせなんだろう。健の手にはたくさんの皺が刻まれて、そしてそれは自分の手も同じなのだ。

今、この時間、珠子と健は生涯を共にした夫婦だった。人生の苦楽を一緒に味わい、子どもはいないようだけれど、それはとても尊い最期だ。健の死を看取ることなく、自分が先に逝けるだなんてこんなに嬉しいことはない。

珠子は声を出せない代わりに、握られた手にきゅっと力を込めてみた。健はそのささやかな力加減に気が付き、握り返してくれる。

やがて徐々に、視界が白くぼやけていく。いよいよ死ぬのだ。だが、怖くはない。

先に逝くね、健は急がなくていいから。

そんな思いすらしていた。

…。


「―…、」

スズメが囀る声に、目が覚める。朝だ。

「何だ、夢…、」

しあわせすぎた夢で、涙が滲む。現実ならどれほどよかっただろう。

不貞腐れて、もう一度寝ようと布団に潜りかけて、珠子は部屋の異変に気が付いた。

トントントン、と包丁が軽快にまな板を叩く音。人の気配。そして、ふわりと漂うみそ汁の香り。

「…。」

珠子はそっとベッドから下りて、裸足のまま台所に向かう。引き戸を開けて、そこには。

「あ。おはよう、たまちゃん。」

朝食を作る、健がいた。

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