第58話
珠子は気が付いていないのかもしれないけれど、予兆として彼女は精神が不安定になると指の爪を噛み始める。健康的で桜色の形の良い珠子の爪がボロボロになる前に、健が止めた。
あの日以来、珠子は大学にも行かず引きこもっている。あんなに好きだった絵画も描いていない。一日中、窓際の床に寝転がって美術雑誌に載った準大賞の絵を眺めている。
「おはよう…。」
眠い目をこすりながら、珠子が起床する。
「おはよ。」
今日は悪い夢を見なかったようで、珠子の爪は現状を維持している。ほっとしたのも束の間、視線を少しずらした瞬間に健は息を飲んだ。珠子の下半身に、血液の赤が濡れて滲んでいいた。
「た、たまちゃん?どうした、どこか怪我…っ、」
「…?」
珠子は首を傾げ、そしてややあと頷いた。
「生理。来たみたい。」
文字通り生理現象だからか恥ずかしげもなく、珠子は呟いた。生理の仕組みをよく理解していない健にも、今回の経血の量は多いものだと推測が付いた。
「ちょ、ちょっと待ってて!」
健は慌てて、畳んでおいたバスタオルを手に戻ってくる。そしてそのタオルを珠子の腰に巻いた。
「汚れちゃうよ。」
「また洗濯すればいいから。それより、お風呂に行こう。」
珠子が歩くと血が落ちるので、健は彼女を抱っこして浴室へと運ぶ。珠子は黙って健の腕の中に収まっていた。
「しっかり、温まるんだよ。」
洗面所に着くと珠子を下ろして、健は退室した。そして点々と床に落ちた血を、健は拭き掃除する。掃除しながら、健は珠子のことを考えていた。
珠子はここ最近、感情の起伏が少なくなった気がする。嬉しいと笑う顔も、恥ずかしいと照れる顔も、悲しいと泣く顔も見ていない。
珠子の心が少しずつ、壊れていくのを感じていた。
珠子が風呂から出る音が聞こえる。前の珠子なら丁寧に髪の毛をドライヤーで乾かして洗面所から出てくるのに、今日は髪の毛から水滴を滴らせながら健の前を通り過ぎようとした。
「たまちゃん、待って。」
健は珠子の手を取って呼び止める。
「何、健。」
「髪の毛、乾かさないと風邪をひくよ。」
そう言って、健は洗面所の棚にあるドライヤーを取りに行く。ドライヤーを持って踵を返し居間に戻ると、健は自身の前に珠子を座らせた。珠子は子猫のように大人しくしている。
ドライヤーから出る風の温度を調整しながら、珠子の髪の毛を乾かしていく。そしてまた一つ、彼女の異変に気が付いた。
「たまちゃん。ここ…、どうした?」
「え?」
珠子の耳の上の髪の毛が、円形状に脱毛していた。
「あれ、髪、抜けちゃってるね。」
頭部にあるはずのない素肌の感触を確認しながらも、珠子は別段ショックを受けたような素振りを見せない。
「…大丈夫。たまちゃんの髪色なら、目立たないよ。」
それも金髪に限っての話だ。珠子は頻繁に髪の毛をブリーチしていたが、今はそれもしていない。徐々に生え際に黒い髪の毛が見えつつあるので、直に目立ってしまうかもしれない。
健は心配しながら、珠子の髪の毛を整えてその場所を隠そうとする。
「うん。」
こくん、と頷く珠子はまるで何も知らない幼子のようだった。
健は一度、深呼吸をすると珠子に語りかけた。
「たまちゃん。病院に行かない?」
「行かない。行っても意味ないし。」
健が何度病院への受診を勧めても、珠子は確固たる意志を持って断った。
「でも…、」
「いいの。」
理解しなくてもいい、ただ放っておいて、と珠子は言う。




