第55話
「38,8度。」
苦しそうに、体温計で測った熱の温度を発表する。
珠子が風邪を引いた。
あの、ささやかな花見の夜に体を冷やした所為だ。…ちがう、俺のせいだ。だが、そう言えば珠子は気にしてしまうだろうから、健は唇を噛んで堪えた。
花見後の夜、珠子は悪寒を感じたのだろう。肩をぶるりと震わせながら「何か、やばいかも」と不吉な宣言をして、そして今に至る。
風邪の症状は主に高熱で、珠子は苦しそうにふうふう言いながら絵のラストスパートをかけていた。休めばいいのに、彼女は筆を止めることをしない。
絶対に締め切りの期限に間に合わせたい、という気迫をすごく感じられたので迂闊なことが言えなかった。
サリ、とキャンバスの上に絵の具の乗った筆が滑る音が響く。まるで命を刻むような音だった。誰にも評価されないかもしれないに、それでも描き続ける珠子の勇気はきっと才能なのだろう。
「たまちゃん。せめてこのお粥だけでも食べて、薬を飲みなよ。」
食欲がないと言って、珠子は食事を摂っていない。病院に行く時間も惜しみ、市販の薬も眠気が来るのが嫌だと言って飲まない。
このままでは、珠子が壊れてしまうと思ったその日の早朝。絵は完成した。
「できた…。大学に行って、提出してくる。」
速乾性のある画材を用いたために、仮眠を取った頃には珠子に絵の塗料は乾いていた。それを確認すると、珠子はキャンバスを脇に抱えて出て行こうとする。その足はふらついて、覚束ない。
「その様子で、外に出るのは無理だよ。もう少し休んでからにしな。」
「ダメ。今日、行かないと。」
聞くと、今日が提出日の期限だと言う。本当に危ない橋を渡ってきたのだと知り、健はひゅっと息を飲んだ。
「それなら、僕が届けるよ。」
「健、教務課を知らないでしょ。」
画展にエントリーしたのちに絵は一度、教員が目を通すので提出時刻は正午まで。その時刻を過ぎると、一切の提出を受け付けないらしい。そして、今の時刻は10時45分を指していた。スムーズにバスに乗って行けたとしても、ギリギリすぎる。場所を迷ったら、アウトだ。
せめて車で送ってあげられたらいいのだけど、レンタカーでは過去の不義理があるために使用ができない。ブラックリストに載っていて、警察と連携されていれば一発で通報されてしまう。
「…、」
玄関に向かおうとする珠子はふらついて、鞄を落としてしまった。半開きだった鞄から、珠子のスマートホンが転がり出る。
「…三島さんに頼もう、たまちゃん。」
「さやかに?でも…、」
「縋れるなら、何にでも縋った方がいい。今のたまちゃんを外に出すのは、心配すぎる。」
「…。」
数秒の逡巡の末、珠子はスマートホンを手に取って画面をタップした。しばらく小さな音で着信音のコールが鳴り、さやかが電話に出る気配がする。
「さやか、ごめん。お願いがあるの。」
さやかは珠子の支援に、すぐに駆けつけてくれた。
「大丈夫、珠子!?」
今日ばかりは、ノック無しの来訪を諫めることはできない。さやかは全ての事情を察して、珠子からキャンバスのバトンを受け取るとアパートを出て行った。
時計の秒針が一秒ずつ刻む音が響く。珠子と健はさやかからの連絡を待っていた。
「間に合って…。お願い。」
珠子は祈るように両手を組んでいる。せめてベッドで寝て待て、と健は言うが、珠子は居ても立っても居られない様子だ。
そして、11時50分を過ぎた頃。珠子のスマートホンが鳴った。珠子は2コール以内にスマートホンに出る。
「もしもし?さやか?」
緊張で強張っていた珠子の表情が和らいでいく。どうやら、提出は間に合ったようだった。
「ありがとう。本当に…、うん。また、連絡する。」
「どうだって?」
それでも一応、健は結果を聞く。当事者から答えを聞くまでは、安心はできないと思った。
「間に合ったって。大丈、夫、」
「たまちゃん!」
珠子は電池が切れたように、膝から崩れ落ちる。健が慌てて支えたので、頭を打つことはなかった。
「ごめん…。ほっとしたら、急に足に来た。」
「そりゃそうだよ。さて、これからは看病のターンだよ。」
「お手数おかけします…。」




