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首椿  作者: 真崎いみ
55/68

第55話

「38,8度。」

苦しそうに、体温計で測った熱の温度を発表する。

珠子が風邪を引いた。

あの、ささやかな花見の夜に体を冷やした所為だ。…ちがう、俺のせいだ。だが、そう言えば珠子は気にしてしまうだろうから、健は唇を噛んで堪えた。

花見後の夜、珠子は悪寒を感じたのだろう。肩をぶるりと震わせながら「何か、やばいかも」と不吉な宣言をして、そして今に至る。

風邪の症状は主に高熱で、珠子は苦しそうにふうふう言いながら絵のラストスパートをかけていた。休めばいいのに、彼女は筆を止めることをしない。

絶対に締め切りの期限に間に合わせたい、という気迫をすごく感じられたので迂闊なことが言えなかった。

サリ、とキャンバスの上に絵の具の乗った筆が滑る音が響く。まるで命を刻むような音だった。誰にも評価されないかもしれないに、それでも描き続ける珠子の勇気はきっと才能なのだろう。

「たまちゃん。せめてこのお粥だけでも食べて、薬を飲みなよ。」

食欲がないと言って、珠子は食事を摂っていない。病院に行く時間も惜しみ、市販の薬も眠気が来るのが嫌だと言って飲まない。

このままでは、珠子が壊れてしまうと思ったその日の早朝。絵は完成した。

「できた…。大学に行って、提出してくる。」

速乾性のある画材を用いたために、仮眠を取った頃には珠子に絵の塗料は乾いていた。それを確認すると、珠子はキャンバスを脇に抱えて出て行こうとする。その足はふらついて、覚束ない。

「その様子で、外に出るのは無理だよ。もう少し休んでからにしな。」

「ダメ。今日、行かないと。」

聞くと、今日が提出日の期限だと言う。本当に危ない橋を渡ってきたのだと知り、健はひゅっと息を飲んだ。

「それなら、僕が届けるよ。」

「健、教務課を知らないでしょ。」

画展にエントリーしたのちに絵は一度、教員が目を通すので提出時刻は正午まで。その時刻を過ぎると、一切の提出を受け付けないらしい。そして、今の時刻は10時45分を指していた。スムーズにバスに乗って行けたとしても、ギリギリすぎる。場所を迷ったら、アウトだ。

せめて車で送ってあげられたらいいのだけど、レンタカーでは過去の不義理があるために使用ができない。ブラックリストに載っていて、警察と連携されていれば一発で通報されてしまう。

「…、」

玄関に向かおうとする珠子はふらついて、鞄を落としてしまった。半開きだった鞄から、珠子のスマートホンが転がり出る。

「…三島さんに頼もう、たまちゃん。」

「さやかに?でも…、」

「縋れるなら、何にでも縋った方がいい。今のたまちゃんを外に出すのは、心配すぎる。」

「…。」

数秒の逡巡の末、珠子はスマートホンを手に取って画面をタップした。しばらく小さな音で着信音のコールが鳴り、さやかが電話に出る気配がする。

「さやか、ごめん。お願いがあるの。」


さやかは珠子の支援に、すぐに駆けつけてくれた。

「大丈夫、珠子!?」

今日ばかりは、ノック無しの来訪を諫めることはできない。さやかは全ての事情を察して、珠子からキャンバスのバトンを受け取るとアパートを出て行った。

時計の秒針が一秒ずつ刻む音が響く。珠子と健はさやかからの連絡を待っていた。

「間に合って…。お願い。」

珠子は祈るように両手を組んでいる。せめてベッドで寝て待て、と健は言うが、珠子は居ても立っても居られない様子だ。

そして、11時50分を過ぎた頃。珠子のスマートホンが鳴った。珠子は2コール以内にスマートホンに出る。

「もしもし?さやか?」

緊張で強張っていた珠子の表情が和らいでいく。どうやら、提出は間に合ったようだった。

「ありがとう。本当に…、うん。また、連絡する。」

「どうだって?」

それでも一応、健は結果を聞く。当事者から答えを聞くまでは、安心はできないと思った。

「間に合ったって。大丈、夫、」

「たまちゃん!」

珠子は電池が切れたように、膝から崩れ落ちる。健が慌てて支えたので、頭を打つことはなかった。

「ごめん…。ほっとしたら、急に足に来た。」

「そりゃそうだよ。さて、これからは看病のターンだよ。」

「お手数おかけします…。」


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