第54話
三月になった。
真冬の厳しい寒さも些か和らぎ、温かい日和も増えてきた。珠子の制作もいよいよ佳境に入ってくる。
珠子はキャンバスにかじりつき、時に寝る間も惜しんで描き続けるものだから健がストップをかけることもあった。
「たまちゃん、瞬きをしなさいね。ドライアイになるよ。」
「え?うわ、忘れてた。」
健から指摘を受けて、珠子は目をぱちぱちと瞬かせる。ずっと瞼を持ち上げていた弊害で、眼球が乾いてひりひりと痛んだ。
「集中すると瞬きも忘れるし、口元が緩むんだよねー。」
唾液が垂れるのを防止するためと言って、珠子はマスクをしていた。
「せめて言われる前に気づいてくれると、安心なんだけどなあ。…はい、上向いて。」
健は目薬を手に取ると、珠子の頬に手を当てて上を向かせる。
「ん。」
思わずきゅっと閉じてしまいそうになる珠子の瞼を、親指の腹で下げてできた隙間に一滴、薬を落とす。長いまつ毛に玉のように滲み、溢れた薬が涙のように目の淵から流れ出た。
「しばらく目頭を押さえて、瞼を閉じてるんだよ。瞬きしたら、目薬が流れちゃうから。」
「はーい。」
「…制作は順調なの?」
「うんー。このまま頑張れば、間に合うと思う。」
考える像のようなポーズをとりながら、珠子は言葉を返す。
「そっか。頑張れ。」
応援しかできないのがもどかしい。だが、今、珠子は確かに頑張るときだろうから、応援だけでもするのだ。
「頑張るよ。今はね、とにかく細かいところの書き込みをしてるの。だから、どうしても集中しちゃって。」
珠子が言うように、キャンバスの大きさに対して随分と細い筆を使っているように思えた。素人が見てもわかるぐらいだ。
「本当はね、誰も気にしねえだろって部分でもあるんだけど、リアリティは細部に宿るんだと思うんだ。」
健は、珠子の描いたひまわりの絵を思い出す。あのひまわりも、葉脈や花びらに透けた光が細かく描かれていた。それが人物画に生かされたら、さぞ圧巻だろう。
まだ見ぬ自分と出会う日が、健は楽しみだった。
夕食の買い出しの帰り道、健は公園で桜が咲いているのを見つけた。たった一輪、先走ってしまった自分を恥じ入るように、桜はひっそりと花びらを広げている。
何となく印象に残り、アパートに帰った健は珠子と共有したいと思った。
「たまちゃーん。」
「んー?」
「お花見行かない?」
「お花見?」
珠子がキャンバスから顔を上げて、首を傾げた。
「まだ、早くない?」
「いや、それがさー、ちょっと間抜けな桜が一輪。」
先程、見かけた光景を説明すると、珠子は「何それ」と言って笑った。
「どれ、見てやろうじゃないの。その、桜。」
「そう来なくっちゃ。」
息抜きも兼ねて、健と珠子は連れ立ってアパートを出た。
「あ。」
「ん?」
珠子がアパートの階段を下りながら、夕闇に染まる空を指差す。
「一番星。輝いているね。」
健も釣られるように、空を見た。そこには確かに、一際輝く星があった。
金星だろうか、それとも木星。もしかしたら、シリウスかもしれない。宵の明星とも呼ばれる一番星を、珠子は見つけるのがうまい。
「人ってさあ、死んだら星になるっていうじゃん。」
珠子は立ち止まり、空を見上げながら言う。
「よく聞く話だね。」
「健も、見つけてあげるからね!」
珠子は両目をつむる。下手だけど、ウインクのつもりなんだろう。
「僕は星にもなるし、幽霊にもなるのかー。忙しいな。」
「そうだよ。常に、私に会いに来るんだよ。」
死なないで。一緒に逃げよう。ずっとそばにいて。
珠子の本心が、ひしひしと健に伝わってきた。だけどそれを実際に言わないのは、珠子の優しさだ。その優しさに甘えてしまいたいと、何度思ったことか。
「ありがとうね。」
だけど僕は、
「うん。」
気付かないふりをする。
夜の公園はひっそりとしていて、昼の様子とは打って変わっている。
「どこにあるの?」
「こっち。」
健は珠子の手を引いて、桜の元へと案内する。桜は変わらず、そこにあった。
「おー。こいつかー。」
珠子は一輪だけの桜を見つけて、嬉しそうに駆け寄る。
「本当だ、間抜け。」
イヒヒ、と珠子は引くように笑った。
「持ち帰る?」
健が桜に手を伸ばそうとする。
「手折るってこと?相変わらず、容赦ないなあ。」
「え、ダメか。」
「多分、普通ならダメなんじゃない?」
「そうかー。じゃあ、まあ、たまちゃんに免じて許してあげよう。」
それから二人は、錆びついたブランコに腰かけながら花見をした。一回漕ぐ度に、キイ、と軋んだ。
「もうすぐ、絵が完成しそうなの。」
珠子は期待に満ちた顔で、告白する。
「やっとね、自分の中で納得するというか…。うん、健って感じ。」
「そうなんだ。良かったね。」
彼女の絵が完成するということは、二人の別れも近いということだ。健は自らの死期を悟る。
「…。」
白々とした沈黙がこの場を統べる。健には健の、珠子には珠子の思いが確かにすれ違うようだった。
ぎこちなく繋いだ手を、無理やり結んだ縁を断ち切るのだ。未来がいつだって希望に満ちているとは限らない。
動き出そうとする歯車を止める術は、誰にもない。




