第52話
バレンタインデー、当日。
「行ってくるね、健。」
「行ってらっしゃい。」
いつも通り、健に見送られてアパートを出る。駅前からバスに乗り、珠子はこれからのことを考えて憂鬱になるのだった。
彫刻学科の作業棟に赴くのは初めてだ。道行く学生に尋ね、喜多野のいる場所を探る。丁度、授業中だったので彼に手紙を書いて、喜多野の友人だという人物に託した。
昼休み。珠子は告白されたときと同じ、教室に喜多野を呼び出した。
「ごめんなさい。」
期待を長引かせるのは悪いからと、開口一番に珠子は断りの謝罪を告げた。
「私、喜多野くんとは付き合えない。だから、チョコレートもあげられない。」
「…そうですか。」
喜多野は落胆して、肩を落とす。わかりきって落ち込む様子を見せる喜多野を申し訳なく、珠子は見守った。ありがたいことに、買っておいたチョコレートもなくしてしまって罪悪感は半減する。ないものをあげることはできない。
「理由を聞いても、いいですか?」
「他に、好きな人がいるの。」
自分で言った後に、悲しくなった。珠子は叶うことのない恋を自覚していた。
「どうしても、俺じゃダメですか。諦めきれない。」
この人は自分の恋を諦めない代わりに、私の恋を諦めろと言うのだろうか。まだ考えが子どもなのだと言ことを知る。今は、恋する自分に酔っているのだ。
健だったら、と考えてしまうあたり、珠子は自分も子どもだということを理解した。こんなんじゃ、健に振り向いてもらえないのは当たり前だ。
「…ごめんね。」
「そう、か…。」
流れる沈黙の長さに、珠子は辟易した。早く解放してくれないだろうか。
「あの。」
「何?」
「最後に…、握手してくれませんか。」
「え?…うん、いいけど。」
おずおずと差し出した手を力強く握られて、そしてようやく喜多野は諦めてくれたようだった。
「ありがとうございました。」
そう言って頭を下げて、頭を下げて喜多野は教室を出て行った。彼の影まで見送って、珠子は大きなため息を吐くと近くにあった椅子に腰かけた。
「疲れた…。」
机に突っ伏して、首だけを動かし窓の外を見る。校舎の裏は山になっていて、今は枯れた木の枝にふっくらとしたスズメが二羽、番いのように寄り添って暖を取っていた。
「握手って…、芸能人かよ。」
はは、と自嘲気味な笑いしか出ない。
珠子はお昼休みが終わるまで、その空き教室で時間を潰した。
作業棟の自動販売機で飲み物と菓子パンを購入して、珠子は自分の作業場に向かう。
次の授業まで、まだ一時間以上あった。
「…。」
扉を開けて、ゆっくりとした足取りで周囲を見渡しながら歩く。卒業制作の佳境に至る四年生たちが、鬼気迫る様子でラストスパートをかけていた。来年の今頃、珠子も同じ姿を後輩に見せるのだろう。
「たーまちゃん。」
不意に声をかけられて、珠子は驚きに目を丸くする。珠子の作業場に、健がいた。
「やっほー。」
「…っくりしたー。どうしたの、健。」
何となく小声での対応になりながら、珠子は荷物を置く。
「ん?お弁当、差し入れてみた。」
「お弁当なんて、いつも無いじゃん…。」
「まあまあ。」
のんびりと、健はお弁当の包みを広げた。そこには、とても一人じゃ食べきれないような量のおかずとおにぎりがあった。
「僕も、一緒に食べようと思って。」
「…もしかして、健。今日だから、来たの?」
今日はバレンタインデー。私が誰かにチョコレートをあげるのでは、と勘繰ってくれたのだろうか。
「んー?」
健はただ笑うだけで答えない。それが答えなのだということがわかるぐらいには、健と一緒にいるつもりだ。
「ありがとう。帰り道で、チョコを買ってあげようねえ。」
珠子は健の頭をいい子いい子するように撫でた。
「やったー。」
何だ、意外と健だって子どもじゃん。
珠子はふっと吹き出した。




