第50話
大学の帰り道、珠子はさやかに街に出ないかと誘われた。
「お父さんがさあ、義理でもいいからチョコレートちょうだいってうるさいんだ。義理に決まってんだろ。」
さやかの家は親子の仲が良く、わざわざバレンタインデーのチョコレートを長野に送っていた。それも毎年のことで、すでに風物詩と化している。
「さやかんちのおばさん、チョコ手作りだっけ。」
「そうそう。それで差別化を図って、私は市販のチョコをあげてるのさ。」
「おじさん、愛されてるなー。」
さやかの父はふっくらとして、たぬき顔で、妻と娘に甘い様子が滲み出るような人柄だった。
微笑ましくて、珠子の心もほっこりと温まるようだ。
ちなみに珠子の父は甘いものが苦手という、バレンタインデーに全く向かない質だった。
二人は電車を乗り継いで、住む町よりも大きな街に出る。コンビニやケーキ店のポップに、やたらハートが描かれていた。バレンタインデー間近のどこか浮ついた空気が満ちている。
デパートの催事場では、有名なブランドのチョコレートが所狭しと並んでいた。その品数と比例するように、女性客が真剣にチョコレートを吟味していた。
「そういえばさー、お昼の彼はどんな用事だった?」
生チョコと洋酒の入ったチョコレートを手にして悩みながら、さやかは何気なしに問う。
「あー…、喜多野くんのこと。大体、想像ついてんじゃない?告白だよ。告白。」
「愛の?」
「愛って…、まあ。そうなる、のかな。」
告白の言葉を口にする喜多野の顔を思い出す。恥ずかしそうで、どこか自信なく、でも期待も含んだ目の輝きをしていた。
「ふーん。どうするの?」
「…断るよ。」
自分にはない、その輝きは珠子を眩しく照らした。光が強すぎて、目が眩むようだった。
きっと彼は健全な性癖を持ち、真っ当に生きてきたのだろう。どう考えても、珠子には彼とのしあわせな未来を思い描けなかった。
「もったいないんじゃない。まずはお友達から、とか選択肢にないの?」
「…。」
さやかは顔を上げて、珠子を見る。
「珠子、宮野さんが好きなの?」
「それは…、」
「やめておいた方がいいよ。」
毅然としたさやかの声色を聞いて、珠子は彼女を改めて見つめ返した。いつになく、真剣な表情をしていた。
「あの人の目、なんか怖いよ。時々、光がなくなるし。憂いがあるって言えばかっこよく聞こえるけど。」
「…さやかに、何がわかるの?」
「じゃあ逆に聞くけど、珠子は宮野さんの何を知ってるの。」
言えない。
言えるわけがない。
黙る珠子に、さやかは無邪気に笑いかける。
「宮野さんみたいな大人に、憧れているだけだよ。きっと。あ、ねえ、このチョコさっき味見したけど美味しかったよ。」
そう言うと、さやかは手ごろな値段のチョコレートの箱を珠子に押し付けた。
「このチョコ渡して、喜多野くんとやらと付き合っちゃえば?」
「…。」
妙に心が落ち着かない帰り道だった。鞄には断り切れずに購入した、可愛らしくラッピングされたチョコレートが入っている。ささやかな贈り物のはずが、随分と重く感じる。
おせっかいが過ぎると最初は憤慨したが、さやかなりに珠子のことを気にかけてくれているのがわかった。
「…。」
「あんまり溜め息を吐くと、しあわせが逃げるよ。たまちゃん。」
「!」
顔を上げると、健が電信柱の街灯の下に立っていた。珠子を迎えに来たという。
「びっくりしたー。」
「手を振ってるのに、気づかないんだもん。」
はは、と笑って、健は珠子と共に歩き出した。珠子は不意に泣きそうになった。
こんなにも安心する目色をしているのに、他人には怖く感じられるのか。彼の光は誰にも届かないのだろうか。
「たまちゃん。」
「…何?」
「…。」
健が困ったように笑う気配がした。気付かれた。きっと聞かれる。何があったの、と。
「今日さー、ミケちゃん。見かけたよ。」
ミケとは商店街にいる地域猫だ。耳の淵が三角に欠けている。
「そう…、元気だった?」
「うん。なでさせてくれた。」
そのまま、健は何気ない会話を紡いでくれる。珠子だけが彼の優しさを知った。
絵に描こうと思った。
健のすべてを、そこに描く。




