第46話
健の眠りは浅い。睡眠の質について考えたことはなかったが、おそらく悪い方だろう。
今日も、微かな物音で目を覚ました。
「…たまちゃん。」
「あれ、起こしちゃった?」
珠子は防寒具を身にまとっている最中だった。時計を見ると、早朝4時を指していた。
「いや、起きた。どこか行くの?」
「うん。ちょっとばあちゃんのとこ。」
「…て、あの廃村?」
「そう。」
頷きながら、珠子はヘルメットを小脇に抱えて玄関へと向かう。健もその後ろを、冬眠明けの熊のようについていく。
「僕も一緒に行きたい。」
「え、めっちゃ寒いよ?」
「それでも、行きたい。」
珠子は健の真意を探るように、彼の目を真っ直ぐに見る。そして何かを悟ったのか、ふと笑みを零した。
「いいよ。」
ヘルメットはさやかの物がもう一つ置きっぱなしになっていたため、それを借りることにする。二人は連れ立って、アパートの駐輪場に向かった。いつも見ている赤のバイクだが、珠子が実際に乗るところを見るのは初めてだ。
バイクにまたがりながら、珠子は後ろを親指で示して健に乗るように言う。
「バイクって、初めてだけどコツとかある?」
「背中と腰に密着して。旋回中は私と同じ方向に体を倒す。あと、足をぶらぶらしないこと。」
「足?」
タンデムシートに乗りながら、健は首を傾げた。
「うん。チェーンや、タイヤに巻き込まれるよん。」
「おっそろしいな!」
慄く健に対して、あはは、と珠子は気軽に笑う。
「安全運転で行くよー。」
「…よろしくお願いします。」
滑らかな発車だった。それだけに、珠子がバイクに乗り慣れていることを知る。
冬の道ということもあるが、スピードは出さずに存外ゆっくりと進んだ。振動が心地よく、景色が後ろに流れていく様子は清々しかった。今まで俄然、自動車派だったが風と一体になるこの感覚は、バイクの運転もいいなと思わせた。
珠子の腰が細いことも、その背中の小ささにも触れて健としては役得だった。言ったら怒られそうなので、絶対に言わないけど。
空を見上げれば、白い月がまだ取り残されている。キンと冷えるような冬の匂いの他に、珠子のシャンプーの香りが鼻孔をくすぐった。
「健ー、怖くない?」
「意外と平気。」
腰に回した手にやや力を込めると、珠子がその手をぽんぽんと叩いてくれた。
数十分ほどかけて廃村へ行く山道に辿り着き、珠子はバイクを止めた。
「ここからは歩こう。」
「了解。」
ザリ、と小石と枯れ草を踏みしめながら、二人は歩いていく。
「この村って、なんで廃村になったの?」
「ただの過疎化だよ。引っ越しも人手が足りなかったらしくて、必要なものだけ持ち出したって聞いたけど。」
「ふーん…。」
珠子が目指した場所は、あの日、一樹と共に訪れた廃墟の家だった。
「ここって、たまちゃんのおばあちゃんの家だったの?」
「そうだよ。」
「うわー…、ごめん。めっちゃ不法侵入したよ。」
健は過去の非礼を詫びる。
「いいよ、いいよ。不法侵入なんて、健が初めてでもないだろうし。」
「土足で入りましたすみません。」
「むしろ靴脱いだら、勇気あるよねー。」
かつての友人と同じようなことを言い、珠子もまた気にせず土足で家に上がっていく。健もそれに続く。まだよく覚えている光景に、不思議な感覚を覚えた。
ずっと昔の出来事のような気がしていたけど、まだたった一か月ほど前のことだった。季節は、二月になるところだった。
ギシ、と相変わらず軋む廊下を進んでいく。家の中だというのに、吐く息が白い。隙間風が吹いていた。
珠子は勝手知ったる我が家がごとく、迷いなく仏間に向かった。健が以前訪れたときには開いていた襖が閉められている。どうやら来ない間にも来客者があったようだ。
キイ、カタンと独特なリズムの軋みを出しながら、珠子は襖を開けた。隙間風のおかげで、換気はされすぎているほどされている。
仏壇の前に厳かに正座すると、珠子は手を合わせた。健もそれに倣い、珠子の隣に腰を下ろす。
「…どうして、仏壇を置いていったの?」
健は聞いた後で、立ち入った質問だったかと思う。だが、珠子は淡々としていた。
「この仏壇に、おじいちゃんがいるから。おじいちゃんね、くそじじいだったの。」
「おじいさんが?」
「うん。いわゆる、酒乱?ってやつでさ、酒飲むと暴れる暴れる。」
言いながら、二つ並ぶ位牌の一方を撫でる。その手つきには慈しみが込められていた。
「お母さんはおじいちゃんが大嫌いだったから、仏壇と一緒に捨てたんだって。」
「ふーん…。思い切りのいいお母さんだね。」
「そうだねー。でも、大変な思いをしてきたのに、おばあちゃんはおじいちゃんを愛していて。だから私、位牌を盗んできて、おじいちゃんの位牌と並べたんだ。」
「たまちゃんも中々に、思い切りがいいね。」
珠子がぺろ、と舌先を出す。
「私、おばあちゃんっこだから。」




