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第8話 恋はシャツ一枚から始まる。

 シャワーの音がする。


 ザーッ……


 浴室から聞こえてくる水音に、エレノアは落ち着かなかった。


(まずい。)


(落ち着け。)


(相手は命の恩人だ。)


(ただ風呂に入ってるだけだ。)


 そう何度も言い聞かせる。


 それでも心臓は言うことを聞かなかった。


 自分の家に男がいる。


 それだけでも事件だ。


 その男が、自分の浴室を使っている。


 その事実だけで頭が真っ白になる。


 酒でも飲まなければ平静ではいられない。


 エレノアはコップにウイスキーを注ぎ、一気に流し込んだ。


「……効かねぇ。」


 余計に顔が熱くなる。


 ガラリ。


 浴室の戸が開いた。


「ふぅ。」


 湯気の向こうから圭介が出てくる。


 黒髪はまだ濡れ、


 首筋から水滴が一筋流れ落ちる。


 石鹸の香りが部屋に広がった。


 そして。


 圭介が着ているのは――


 自分の白いシャツだった。


「エル、ありがと。」


「服、借りた。」


「あ……ああ。」


 返事にならない。


(俺のシャツ。)


(男が。)


(着てる。)


 その事実だけで頭が沸騰する。


(恋人じゃねぇか……。)


(いや違う。)


(違うけど。)


(これ恋人みてぇじゃねぇか。)


 頬が勝手に緩む。


 必死で押さえる。


(俺、人に服を貸したことなんかねぇぞ。)


(まして男に。)


(しかも嬉しいって何だ。)


(俺どうした。)


 神様。


 ありがとう。


 教会で祈っていた神へ、心の中だけで礼を言う。


 もちろんツボニールではない。


 あっちは胡散臭すぎる。


「今日はどこで寝ればいい?」


 圭介が部屋を見回す。


「床でも平気だけど。」


「馬鹿言うな。」


 エレノアは即答した。


「寝室使え。」


「え?」


「俺はソファで寝る。」


「いや、僕がソファで寝る。」


「いいから。」


「でも。」


「いいから寝室行け。」


「ありがとう。」


 そう言って笑う。


 その笑顔だけで胸が締め付けられる。


(頼む。)


(そんな顔するな。)


(勘違いする。)


 深夜。


 エレノアは眠れなかった。


 酒瓶を抱えたまま廊下をうろうろする。


 寝室の前まで来る。


(入るな。)


(帰れ。)


(寝ろ。)


 理性が命令する。


 しかし足は動かない。


 その部屋には。


 自分のベッドがある。


 そのベッドで。


 自分のシャツを着た男が眠っている。


 考えるだけで鼓動が速くなる。


(少しだけ。)


(顔を見るだけ。)


(酒でも飲むか聞くだけ。)


 そう自分に言い訳する。


 コンコン。


 小さくノックする。


 返事はない。


 ゆっくり扉を開ける。


 月明かりが差し込む寝室。


 圭介は静かに眠っていた。


 自分が毎日眠っていたベッドで。


 自分の枕を使って。


 自分の匂いに包まれながら。


 その寝顔は驚くほど無防備だった。


 少年のように穏やかで。


 どこか安心しきった表情。


(……なんだよ。)


 胸が痛い。


 こんな感情は知らない。


 起こそうと思った。


「酒でも飲もうぜ。」


 その一言だけ言いたかった。


 でも。


 言えなかった。


 眠っている顔を見ているだけで十分だった。


(反則だ。)


(こんなの。)


(惚れるなって方が無理だろ。)


 エレノアは苦笑すると、


 静かに扉を閉めた。


 廊下に戻り、酒を一口だけ飲む。


「……参った。」


 西部最強と呼ばれた賞金稼ぎは、


 銃でも刃物でもなく、


 一人の天然な青年の笑顔に、


 完全に撃ち抜かれていた。

☆ここまで、読んでくださり、ありがとうございました。


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