第7話 夕暮れの食卓
夕暮れ。
窓から差し込む橙色の光が、小さな家を柔らかく染めていた。
鍋から立ち上る湯気。
焼きたてのパン。
豆と野菜を煮込んだ素朴なスープ。
豪華とは程遠い夕食だった。
それなのに――。
エレノアは何度も向かいの男を見てしまう。
黒髪。
穏やかな横顔。
焚き火のように温かな表情。
目が合いそうになるたびに視線を逸らす。
スプーンを持つ手が、少しだけ震えた。
(……なんなんだ。)
(落ち着け、俺。)
男と同じ食卓を囲む。
そんな当たり前のことが、二十八年間、一度もなかった。
「……お前、料理できるのか。」
思わず聞いていた。
圭介は笑ってスープを口に運ぶ。
「うん。」
「缶詰と乾燥コンソメがあれば、だいたい何とかなるよ。」
「豆と野菜、それに肉を入れれば、それっぽくなるし。」
少し照れくさそうに笑う。
「病院にいる時間が長かったから。」
「家でできることって家事くらいだったんだ。」
「退院したら兄ちゃんに食わせようと思って覚えた。」
エレノアはスプーンを止めた。
(……そうか。)
もう一口飲む。
温かい。
優しい味だった。
(男が作った飯なんて……。)
(初めて食べた。)
この世界では料理は女の仕事。
洗濯も。
掃除も。
全部そうだ。
だから男が台所へ立つ姿など見たことがない。
「なんか……。」
「坊ちゃんって感じなのにな。」
「料理までできるんだな。」
圭介は照れくさそうに笑った。
「花婿修業かな。」
「いつか僕をもらってくれる人がいたら困らないように。」
そして、何の迷いもなく続ける。
「エル、もらってくれる?」
「────ぶっ!」
盛大にスープを吹きそうになる。
「ゴホッ……ゴホッ!」
「だ、大丈夫?」
「お、お前!」
真っ赤になったエレノアは思わず立ち上がる。
「そういうこと軽々しく言うんじゃねえ!」
「?」
圭介は首を傾げた。
本当に意味が分かっていない顔だった。
(まただ。)
(また無意識か。)
(こいつ……。)
(無自覚で心臓撃ち抜いてきやがる。)
賞金首のライフルより危険だ。
鼓動がうるさい。
(なんなんだよ。)
(俺を気持ち悪がらねえ。)
(それどころか……。)
『美人だ。』
昼間、照れもなく言ったあの言葉。
男娼ですら、
「こんな醜女じゃ商売にならねえ。」
そう笑って断った。
そんな俺に。
迷いなく。
「美人。」
そう言った。
しかも。
礼儀正しい。
食べ方も綺麗。
掃除も洗濯も料理もできる。
頼まれなくても家事を始める。
(海の向こうの貴族か何かか……。)
そう思えるほど育ちが良かった。
その時だった。
「そういえば。」
「エルって僕より年上?」
「……お前、いくつだ。」
「二十。」
(…………。)
頭が真っ白になる。
(二十?)
(八つ下かよ……。)
思わず目を逸らした。
(まずい。)
(二十八なんて言えねえ。)
辺境でも二十五を過ぎれば行き遅れ。
二十八なんて言った瞬間、
「売れ残り」
その一言で終わる。
「エルは?」
「…………。」
少しだけ沈黙。
「……二十四。」
言ってしまった。
人生で初めて。
年齢をごまかした。
(神よ……。)
(あとで告解しに行く。)
(あのシスター絶対笑う。)
「『年齢をごまかしました』」
『ぶふっ!』
告解室で腹を抱えて笑うミリアムの姿が頭に浮かび、思わず頭を抱えたくなる。
圭介はにこっと笑う。
「じゃあ四つ上なんだ。」
「うん。」
「なんか安心した。」
(安心……?)
「年上のお姉さんって頼れる感じがするし。」
ドクン。
胸が跳ねる。
(頼れる……。)
(俺が……。)
さらに圭介は目を輝かせた。
「それにエルって格好いい。」
「『クイック&ザ・デッド』のエレンみたい。」
「シャロン・ストーンが演じたガンスリンガー。」
「子どもの頃から憧れだったんだ。」
(……誰だ。)
(シャロン?)
(エレン?)
意味は分からない。
でも。
『憧れ』
その一言だけは分かった。
(俺が……。)
胸が熱くなる。
こんな言葉。
人生で一度も言われたことがなかった。
やがて圭介が少し遠慮がちに口を開く。
「あのさ。」
「お願いがある。」
「なんだ。」
「しばらくここに置いてくれない?」
「納屋でいい。」
「家事は全部やる。」
エレノアの思考が止まった。
(一つ屋根の下。)
(男と。)
(俺が。)
心臓がまた暴れ始める。
(落ち着け。)
(平静だ。)
(顔に出すな。)
必死に息を整えた。
「……お前は命の恩人だ。」
「追い出すほど俺は狭量じゃねえ。」
少しだけ目を逸らして言う。
「好きなだけいろ。」
圭介の顔がぱっと明るくなる。
「ほんと?」
「ああ。」
(帰るな。)
(ずっと……。)
(ずっとここにいてくれ。)
喉まで出た。
『俺の隣にいてくれ。』
たった一言。
その一言だけが言えない。
断られたら。
きっと立ち直れない。
だから飲み込んだ。
圭介は嬉しそうに笑う。
「ありがとう。」
少し照れながら頭をかいた。
「信じてもらえないと思うけど。」
「こっちへ来る前、神様に言われたんだ。」
「そのうち運命の人に会えるって。」
エレノアの時間が止まる。
砂漠。
焚き火。
銀髪の女。
『三日後、渓谷へ行け。』
『そこで男に出会う。』
『願いは叶う。』
そして最後の言葉。
『男もお主を気に入るはずじゃ。』
(違う。)
(気に入ったのは……。)
(俺の方だ。)
胸が熱い。
鼓動だけが大きく響く。
(あれは……。)
(本当に神様だったのか。)
エレノア・ウエストウッドは、まだ知らない。
この日、自分の人生は賞金首との撃ち合いではなく、一人の青年の無邪気な笑顔によって、大きく変わり始めていたことを。
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