第67話 銀刃の官能と、狂愛の首輪
「ん、んん……っ!」
暗がりの中で、圭介は意識を取り戻した。
視界がゆっくりと焦点を結んでいく。
物置部屋の真ん中。椅子に深く縛り付けられ、手足は頑丈な麻縄で締め上げられていた。口には厚い布の猿轡。
そして──その目の前に、彼女がいた。
ベッドに腰掛け、脚を組み、右手に握った軍用ナイフの腹を左の掌へポン、ポンと打ち付ける少女。
アンナ・ミラー。
ニヤリ。
口角が耳の下まで裂けるかのように跳ね上がる。
灰色の瞳が、ドロドロとした暗い歓喜に濡れていた。
「……『お楽しみ』の、時間」
アンナは静かに立ち上がると、ゆらりと首を傾げた。
一歩。
また一歩。
足音もなく近づいてくる死神。
顔が急接近し、吐息がそのまま肌にかかる距離。
「ん……ん、んん……っ!」
言葉にならない悲鳴を上げる圭介。
アンナはそっと、己の人差し指を唇に当てた。
「……黙って」
ひやりとした銀の刃先が、圭介の目の下の柔らかい皮膚へ突き立てられる。
薄皮一枚を切る、微かな痛み。
「……わかる?」
こくこくと、必死で頷く圭介。
するとアンナはナイフを引くと、圭介の首筋に顔を埋め、ゆっくりと匂いを嗅ぎ始めた。
「……いい匂い」
ゾクッと悪寒が走る。
躊躇いもなく、圭介の白く繊細な首筋に、しっとりとした深い唇を押し当てた。
ちゅ……と、甘く淫らな水音が薄暗い室内へ響く。
名残惜しそうに唇を離すと、圭介の両頬を爪が食い込むほど強く掴み、鼻先が触れ合う距離で見つめ直した。
「……今から、猿轡を外す。」
「……でも、断りもなく喋ったら」
底冷えする、平坦な声。
「……わかるわね?」
コクコクと肯く圭介。
手際よく猿轡が解かれ、口から外された。
「ぶはっ……! 」
「な、なんでこんなひどいことを……っ!?」
解放された反動で、思わず声を張り上げてしまった圭介。
──バチンッ!!
「っ……!?」
強烈な平手打ち。
衝撃で、圭介は椅子ごと床へ激しく倒れ込んだ。
倒れた圭介を、アンナは見下ろす。
灰色の瞳は、静まり返った湖面のように無感情だった。
「……おい。」
「……喋るなと、言ったはずだ」
ドスンッ!!
圭介の顔面のすぐ横で、アンナのブーツが床を激しく踏みつけた。
木床が悲鳴を上げて軋む。
あまりの恐怖に、圭介の身体がガクガクと震えた。
……その直後。
アンナの顔面から一切の冷酷さが消え去り──ニッコリと、不自然極まりない笑顔が浮かび上がった。
「……ごめん、ごめん。」
「君が急に喋りだすから。」
「つい、カッとなっちゃって。へへへ」
軽やかに笑いながら、倒れた椅子を力任せに引き起こすアンナ。
(な、なんだ……こいつ……っ!)
( 本物のサイコパスだ……!)
恐怖で心臓が潰れそうになりながらも、圭介は必死に息を整え、目を逸らさずにアンナを見据えた。
圭介の瞳に宿る、冷酷な現実を受け止めた「覚悟」の光。
アンナはそれに気づくと、満足そうに瞳を細めた。
「……いいね。」
「……度胸も、ある」
アンナはスッと圭介の膝の上に跨がり、軽々と身体を預けてきた。
「……あなた」
肩をすくめる。
「……いや、お前。」
「パイクの情夫なんだろ?」
「 あいつに抱かれてるなら……」
「私とも、いけるよね」
中性的な顔を歪ませ、困惑する圭介。
「……どっちが、好み?」
ニヤリと唇を歪めるアンナ。
返答を一歩間違えれば、次の瞬間には顔面を打ち砕かれるか、ナイフが刺さる。
固まる圭介。
「ごめん、ごめん。」
「この状況じゃ、私って言うしかないよね。」
「……じゃあ、質問を変える」
アンナは圭介の耳元へ顔を寄せ、密やかに囁いた。
「私……」
「お前から見て、どう?」
緊迫する静寂。
圭介は震える唇を開き、真っ直ぐに答えた。
「綺麗だよ……」
「綺麗で、かわいいって感じが……近いかな」
「……へぇ」
アンナの喉から、満足げな吐息が漏れた。
「……じゃあ、キスしてみて」
甘い唇が目前まで寄せられる。
ゴクリと喉を鳴らし、圭介は自らアンナの唇へと重ねていった。
首筋には、いつでも命を絶てるようにナイフの冷たい刃先が押し当てられている。
始めは、触れ合うだけの軽い接吻。
だが──。
(……? )
(なにか……おかしい……)
アンナの脳内に、正体不明の「違和感」が走った。
本来ならば、ただの玩具として苦痛を与え、切り刻むはずだった。
それなのに──唇に触れた瞬間から、胸の奥から不可解な熱量が溢れ出し、手放したくなくなる。
『誰からも選ばれなかった者』同士を引き合わせ、狂おしい運命の糸で縛り上げる圭介の無自覚な加護──《縁結びの加護》。
その見えない加護の影響が、アンナの壊れた感情回路を猛烈に狂わせ始めていた。
「んっ……ふ……ぅ……っ」
深く、長く、舌を絡め合わせる密度の濃い接吻。
やがて唇が離れると、アンナの無機質だった灰色の瞳は、見たこともないほど妖艶に、熱く蕩けていた。
「……ふふっ。」
「……すごく、いいわ」
「や……やめて……っ」
圭介が弱々しく拒むと、アンナは唐突に立ち上がった。
そして──冷たいナイフの刃先を、圭介の太股の付け根、急所のすぐ至近距離へグサリと突き立てた。
身をすくめる圭介の首筋を淫らに舐め上げながら、アンナは空いた左手で、圭介の服の上から粗暴かつ官能的に股間をまさぐり始める。
「……とんだビッチね。」
「……身体は、正直」
耳元で囁かれる、艶を帯びた狂気の声。
「……こんなに熱くなって。」
「……殺すつもりだったけど」
ナイフの腹で圭介の頬を撫で下ろし、アンナは歪んだ歓喜を爆発させた。
「……お前を、飼うことにする。」
「……いいな?」
「っ……!」
「……せいぜい、私に媚びろ。」
「……パイクの目の前で、お前を無惨に犯してやる」
ニヤリと笑うアンナの顔は、完全なる所有欲に支配されていた。
その少し前──。
リシアは密輸団の巨大な倉庫へと到着していた。
「……何だ……? 静かすぎる……」
不穏な気配を感じ取り、愛用の拳銃を手に巨大な木製扉を押し開ける。
──一瞬にして、鼻を突く猛烈な腐臭とハエの羽音。
「っ……!?」
中に広げられていたのは、地獄のような惨状だった。
転がる手下の遺体。
さらにはボスのヴァレリアまでもが、絶望に顔を歪めたまま血の海の中に横たわっている。
だが──積荷の密輸品は一切手付けされておらず、手に入ったはずの金も残されたまま。
(……おかしい。)
(敵対組織の襲撃なら、品物を奪うはずだ……! )
(それに、弾痕の角度と殺され方……大勢じゃない。)
(プロの仕事だ……!)
リシアの背筋を、冷たい汗が吹き抜けた。
(まずい……! )
(こんな真似ができる奴が、この街にいる……!?)
死体を回収する暇などない。
必要な金品だけを素早く鞄に詰め込むと、リシアは跳ぶように外へ飛び出した。
胸を突き破らんばかりの、激しい胸騒ぎと焦燥感。
「ケースケ……っ!!」
愛馬の脇腹を強く蹴り上げ、狂ったような速度で、圭介の待つ隠れ家へと馬を走らせるのだった──。
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