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第65話 ドア越しの心理戦と、忍び寄る死神

 昨夜の狂気と血の惨劇から一夜明けた、透き通るような朝。


 国境沿いの街の静かな一角にある隠れ家。


 玄関先で、リシアは心底愛おしそうな瞳で圭介を見つめていた。


「……金を受け取ってくる」


「うん……気をつけてね」


「夕方までには帰る。」


「……いいか、ケースケ。」


「私がいない間、誰が来ようと絶対に扉を開けるな。」


「それと……銃を持っておけ」


「わかったよ……」


 少し困ったように小さく肩をすくめてみせる圭介。


「……ねぇ、帰りにチーズを買ってきてほしい」


「……ああ」


 リシアは細い腕で圭介を強く、壊れ物を扱うように抱きしめた。


「これが終わったら……」


「ここを出よう」


(……お前と二人で。)


(誰の目も届かない、どこか遠い場所へ)


 胸の内で強く誓い、リシアは重ねた唇を貪る。


 時が止まったかのような、深く濃厚な接吻。


 やがて名残惜しそうに唇が離れる。


「じゃあな。……」


「絶対、誰にも開けるんじゃないぞ」


「うん、約束するよ」


 何度も念を押し、リシアは朝靄の街へと姿を消した。



 ──だが。


 その背中を、遠くの屋根の上から冷たく見下ろす影があった。


 黒いロングコート。


 あどけない少女の貌。


 アンナ・ミラー。


 ──ニヤリ。


 口角が異様に吊り上がり、邪悪な笑みが溢れ出す。


 アンナは無音の足取りで屋根を降りると、リシアの去った隠れ家へとゆっくり歩みを進めた。



 リシアが出ていってから、わずか数分後。


 コンコン。


 木製の玄関扉が軽やかに鳴った。


 扉の前に立つのは、アンナ・ミラー。


 顔には気味の悪い「作り笑顔」。


 だが、灰色の瞳は一点──扉の鍵穴付近だけを冷たく見つめている。


 コンコン。


 ……反応なし。


 一瞬で、表情が消失し、無機質な「素」に戻った。


 中の気配を探る。


(……静か。)


(……でも、床の軋む音。)


(……まだ、男はいる)


 再び口角を強引に釣り上げ、不自然に高い声を張り上げた。


「……おはよう。」


「……誰か、いる?」


 返事はない。


「……お願い、出てきて……」


「パイクに、頼まれたの」


 甘ったるく、どこか崩れた滑舌。


「……いるんでしょ。」


「……開けてよ」


 その時──ドア越しに、かすかな硬い金属音が響いた。


(……この、ドアのすぐ前。)


(……銃を、構えた)


 アンナの口元が再びニヤリと歪む。


 気づかないフリをして、さらに強く扉を叩いた。


 ドンドンッ!


「……いるのは、分かってるの。」


「……開けて」


 明るいトーンで言い放つ。


「……じゃないと、勝手に入るよ。……で、勝手に帰るね」


「……だ、誰……?」


 扉の奥から、警戒で極限まで緊張した圭介の声が返ってきた。


「……開けて。……用事が済んだら、帰るから」


「……用事って、何……?」


「……それは、中に入ってから。……玄関先じゃ、話しにくいよ」


「……パイクが帰ってきてからにしてよ」


 即座に拒む圭介。


 アンナは心底残念そうに首を振った。


「……それじゃ、ダメなの。」


「……コインが、決めたから」


「……え? コイン……?」


「……表だったの。」


「……あなたに、会えって」


 手をひらひらと振るアンナ。


 扉の裏で、圭介の脳裏に困惑が広がる。


(……コイン? なんのことだろう……?)


「……ごめんなさい、開けられないよ。引き返して」


 きっぱりと拒む圭介。


 手元の拳銃の安全装置を外し、いつでも撃てるようドアに向けた。


「……うーん。……仕方ないのかな」


 扉の向こうから、遠ざかる足音が聞こえ始める。


「……パイクに頼まれたんだけどな。……ざんねん」


 わざとらしい声が静まり返っていく。


 圭介は素早く二階の窓へと駆け上がり、身を隠しながら外を確認した。


 通りを去っていく、テンガロンハットに黒いコートの小柄な影。


(……行ってくれたのかな。よかった……)


 安堵の息を吐き、胸を撫でおろしながら一階のリビングへ戻った圭介。


 だが──。



「──やあ。君が、噂の黒髪の男だね」


「……っ!?」


 リビングの中央。


 そこに、先ほど去ったはずの少女がぽつんと佇んでいた。


 深めにかぶったテンガロンハット。


 黒いロングコート。


 ボブカット。


 端正で人形のような顔立ち。


 見た目は十代後半の華奢な少女。


 アンナ・ミラー。


 鍵など最初から意味をなさなかったと言わんばかりに、彼女は一切の足音もなく居間に侵入していたのだ。


 瞳には感情がない。


 灰色がかった淡い瞳。


「……会いたかったよ」


 その言葉と同時に、アンナの顔面が歪に引きつった。


 これからこの室内で繰り広げられる惨劇と悲鳴を脳裏に描き、一瞬、その瞳が泥のような愉悦で狂おしく輝く。


 カチャリ。


 コートの裾から覗く二丁のオートマチック。


 逃げ場のない密室で、死神の爪が、圭介の首元へ突き立てられようとしていた──。

☆ここまで、読んでくださり、ありがとうございました。


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