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第61話 湯けむりの向こう――「お前と世界を見たい」

 湯気が、静かに浴室を満たしていた。


 窓の外では、夜風が乾いた大地を撫でている。


 湯船の中。


 リシアは圭介の前に背を預けていた。


 肩に頭を乗せる。


 圭介の腕が、そっと彼女を支えている。


 さっきまでの騒がしさが嘘のようだった。


 チャプ……。


 湯が小さく揺れる。


「……どうしたんだ?」


 圭介が訊く。


 リシアは少しだけ顔を上げた。


「今さらだぞ」


「でも、こういうの……初めてだし」


「……そうだな」


 それきり、二人とも黙った。


 湯気。


 水音。


 互いの呼吸。


 その静けさの中で、リシアがぽつりと口を開いた。


「今はこんなだがな」


「ん?」


「……そこそこ良い家の出だったんだ」


「へえ」


「意外か?」


「けっこういい子ちゃんだったんだ」


「……」


「ごめん」


「別にいい」


 リシアは小さく息を吐いた。


「お袋には、いつも怒鳴られてた」


「厳しかったんだ」


「ああ」


 一拍。


「でも、親父は違った」


 リシアの声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


「怒られている私を、いつも抱きしめてくれた」


 リシアが、圭介の腕にそっと触れる。


「……こんな風にな」


 その瞳に、遠い記憶が浮かんだ。


「戦争で、全部なくなった」


「家も」


「家族も」


 短い言葉。


 それ以上は、すぐに続かなかった。


「行く場所もなくなった」


「だから軍隊に入った」


「十四だったが……十八だと言った」


 圭介が息を呑む。


「戦争が終わったときには、何も残ってなかった」


 リシアは天井を見上げた。


「敗残兵だ」


「まともな仕事なんてない」


「それに――」


 右手を湯の上に出す。


 親指と人差し指を立てる。


 銃の形。


「私には、これしかできなかった」


 苦笑。


「親父が生きてたら……今の私を見て、何て言うんだろうな」


 沈黙。


 そして。


「……お前は?」


「僕?」


「ああ」


 リシアが振り返る。


「話せよ」


「いや……」


「夫婦だろ」


「仮だけどね」


「……そうだったな」


 リシアの目が、ほんの少し伏せられた。


 それでも追及はしなかった。


 ただ、


「話せ」


 とだけ言った。


 圭介はしばらく黙っていた。


「僕は、ずっと病弱だった」


「……」


「小さい頃から、病院と家の往復」


「相手をしてくれるのは家族くらいだった」


「両親は?」


「もういない」


「兄貴だけだった」


 圭介が笑う。


「兄貴が親友だったんだ」


 リシアは黙って聞いている。


「みんなが自由に出歩いてるのに、僕は病室の中」


「だから……いつか世界中を見てみたかった」


「西部劇が好きだった」


「銃を持って」


「馬に乗って」


「荒野を走って」


「自由に生きる」


 圭介は苦笑した。


「それが、こっちに来たら」


 一拍。


「強盗団の仲間入り」


「……」


「パンチラインが効きすぎてるよね」


「ふっ」


「ふふっ」


 二人の笑い声が、湯気の中に溶けた。


 リシアは再び圭介に背を預ける。


「強盗団も悪くない」


「そう?」


「誰にも縛られず、今を生きる」


「……うん」


「一緒に行こうぜ」


「どこに?」


「どこまででも」


「世界中」


「……それも、いいかもね」


 圭介の返事は、少しだけ弱かった。


 リシアは気づいた。


 その理由にも。


 エレノア。


 名前を出さなくても分かる。


 リシアの胸の奥が、少しだけ痛んだ。


 ――私より、あいつなのか。


 ――まだ忘れられないのか。


 けれど。


 責める気にはなれなかった。


 リシアは圭介の方へ身体を向ける。


「あのな、ケースケ」


「ん?」


「私は……」


 言葉を探す。


「どうも、嫉妬深いらしい」


「知ってる」


「……そうか」


「今のは否定してほしかった」


「ごめん」


 リシアが苦笑する。


「お前が他の女を見るのが嫌なんだ」


 静かな声だった。


「狂おしいくらいにな」


「……」


「だから」


 リシアは圭介を見る。


「私を見ろ」


 圭介が目を逸らさない。


「分かった」


「本当に?」


「うん」


「……ならいい」


 リシアは小さく笑った。


 けれど、その笑顔の奥には、まだ不安が残っている。


 ――お前の心の中に、別の女がいることくらい知っている。


 それでも。


 今だけは。


 この時間だけは。


 自分の隣にいる。


 それでいい。


 リシアは圭介の肩に額を寄せた。


「一緒に世界を見ようぜ」


「うん」


「どこまでも」


「……うん」


 心の中に、今もエレノアという別の女がいることを知りながら

 リシアは圭介の唇を強く、長く、貪るように塞いだ。


 時が止まったかのような、深い濃密な接吻。


 湯船の波紋が、ゆっくり広がっていく。


 流れるのは、甘い睦事の余韻。


 二人分の荒い息遣い。


 背中越しに直に伝わってくる、お互いのドクドクという激しい鼓動。


 しばらく二人は何も言わなかった。


 ただ、隣にいた。


 それだけでよかった。


「さて」


 やがてリシアが立ち上がる。


「上がって飲み直そうぜ、ケースケ」


「もう寝ようよぉ……」


「ダメだ。これから浴びるほど酒を飲んで……その後はまた『お楽しみ』だからな」


「えぇっ!? 朝まで!?」


「当たり前だろ」


「そんな体力ないよ……っ!」


「そうか〜?」


 リシアは不敵に口角を上げると、くっくっと肩を揺らして笑った。


「さっきから……なんか腰に当たってるんだがな?」


「あっ……!? いや、これは……そのっ!」


 顔を限界まで真っ赤にする圭介。


「「ふふふふふふっ!」」


 湯気の立ち込める浴室に、二人の楽しげな笑い声


「せっかく二人きりなんだ」


 そう言って、リシアは先に浴室を出ていく。


 圭介はその背中を見ながら、小さく笑った。


 湯気の向こうへ消えていく背中。


 その姿を見つめながら――


 圭介はまだ知らなかった。


 この何気ない時間が。


 リシアにとっては、これまでの人生でほとんど持てなかった、


「明日も、この人と一緒にいたい」


 という願いそのものだったことを。

☆ここまで、読んでくださり、ありがとうございました。


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