第58話 橋の向こう側――そして、僕は普通の生活を捨てる。
メヒクトリと、フェデレーション・オブ・アメリジア。
二つの国を隔てる大河が、荒野を横切っていた。
川幅は広い。
流れも速い。
その上に、一本の吊り橋が架かっている。
風が吹くたび、木製の橋板が軋んだ。
ギィ……。
ギィ……。
対岸。
アメリジア側の荒野に、人影が見えた。
騎馬。
数は――七。
ヴァレリアが目を細める。
「……来たな」
誰も返事をしない。
返事など必要なかった。
ヴァレリアが、ほんの少し顎を引く。
それだけ。
周囲の女たちが一斉に動いた。
ライフルを手に取る。
拳銃の位置を確認する。
馬の速度を落とす。
それぞれが無言で配置につく。
圭介は、その一連の動きを見ていた。
さっきまでの陽気さが消えている。
笑い声もない。
酒の匂いも、冗談もない。
あるのは――緊張だけ。
(これが……密輸か)
圭介もライフルを持ち直した。
隣を見る。
リシア。
彼女もこちらを見た。
一瞬。
目が合う。
リシアの視線が、対岸へ。
次に、圭介のライフルへ。
そして――自分の腰の拳銃へ。
圭介は小さく頷いた。
言葉はない。
それで十分だった。
――気を抜くな。
――分かってる。
そんな会話が、視線だけで成立する。
ヴァレリアが手を上げた。
「パイク」
「ケースケ」
二人を見る。
「先に行く」
短い命令。
「付いてこい」
二人が頷いた。
圭介はバンダナを口元まで引き上げる。
黒髪と黒い瞳。
男だと知られれば、面倒なことになる。
リシアも帽子のつばを少し下げた。
三騎。
ゆっくりと吊り橋へ入る。
ギィ……。
ギィ……。
馬の蹄が橋板を鳴らす。
川面から吹き上げる風が冷たい。
対岸の七人が、じっとこちらを見ている。
近づく。
近づく。
そして――。
「止まれ」
声が響いた。
七人全員がライフルを構えている。
全員、カウボーイハット。
ロングコート。
だが。
妙だった。
恰幅のいい女。
異様に大柄な女。
そして、その中には――口髭を生やした女までいる。
先頭の女がヴァレリアを見る。
「ヴァレリアか」
「ああ」
ヴァレリアは馬を止めた。
「サラは?」
「……怪我した」
「そうか」
ヴァレリアの目が細くなる。
「動けないのか?」
「ああ」
「他の連中は?」
「クビにした」
沈黙。
風が吹く。
ヴァレリアの目が、ほんの僅かに動いた。
リシアを見る。
次に圭介。
リシアも圭介を見る。
一瞬。
それだけ。
――おかしい。
圭介も頷いた。
――うん。
ヴァレリアが笑った。
「まあいい」
馬を一歩進める。
「金は?」
「用意してある」
袋を開く。
銀貨。
相手の女が覗き込む。
「……いいな」
「ブツは?」
「ある」
女が手を上げる。
「こっちへ――」
「待った」
圭介だった。
全員の視線が集まる。
リシアが僅かに目を動かす。
――ケースケ。
――任せて。
圭介はライフルを構えた。
「ブツが何か知ってるの?」
女が笑う。
「テキーラだろ?」
その瞬間。
カチャッ。
二つの銃が同時に動いた。
圭介。
リシア。
銃口が、敵を捉える。
「動くな」
リシアの声は低い。
静かだった。
「ブートレッグ」
圭介が言う。
「ムーンシャイン」
続ける。
「隠語だ」
相手の顔から笑みが消える。
「……何?」
「本物なら、普通は使う」
圭介の目が細くなる。
「使わなかった」
リシアが短く言った。
「偽物だ」
空気が変わった。
敵の女が手を広げる。
「いやいや……」
笑う。
「初対面で、そこまで警戒するかね」
圭介は答えなかった。
ただ、相手の服を見る。
シャツ。
コート。
ブーツ。
そして襟元。
「……保安官だ」
女が眉を動かす。
「違う」
「いや」
圭介は首を振った。
「嘘だ」
「何を根拠に?」
「シャツ」
「は?」
「アイロンが掛かってる」
女が黙る。
「密輸の連中なら、こんなに綺麗に着ない」
圭介の視線が、相手の腰へ。
「それに」
「……」
「銃の位置が軍人寄りだ」
リシアが僅かに口元を上げる。
「よく見てる」
「西部劇で覚えた」
「映画か?」
「そう」
女が笑った。
「気に入った」
そして――。
「俺のところで働けよ」
その瞬間だった。
背後の茂みが揺れた。
ガサッ。
圭介の目が動く。
リシアも同時に見た。
一瞬。
目が合う。
――来る。
――分かった。
パンッ!
銃声。
リシアの弾が先頭の女の帽子を弾き飛ばした。
「撃て!」
ヴァレリアが叫ぶ。
一斉射撃。
荒野に銃声が轟いた。
パン!
パンパン!
ドンッ!
馬が嘶く。
敵が散開する。
圭介はライフルを構えた。
狙う。
撃つ。
一人。
肩口。
二人目。
腕。
三人目。
銃を持つ手。
殺さない。
だが、戦えなくする。
その精度にヴァレリアが目を見開いた。
「……あいつ」
圭介は馬腹を蹴った。
「橋を渡る!」
リシアが振り返る。
「行け」
「リシア!」
「行け!」
圭介が橋へ。
馬が走る。
吊り橋が大きく揺れる。
その瞬間。
パンッ!
銃声。
リシアの乗っていた馬が崩れた。
「リシア!」
地面に転がる。
だが、リシアはすぐに立ち上がった。
銃を抜く。
「先に行け」
「でも――」
「ケースケ」
その声は静かだった。
「行け」
圭介は歯を食いしばる。
馬を走らせる。
橋を渡る。
もう少し。
あと少し。
対岸。
その瞬間。
――パンッ!
銃声。
世界から音が消えた。
リシアの身体が、ゆっくりと崩れる。
「……リシア?」
圭介が振り返る。
彼女の周囲に、保安官たちが集まっていく。
「リシア!」
馬を返そうとする。
だが。
ヴァレリアが前に出た。
「ダメだ」
「離して!」
「戻れば、お前も捕まる」
「でも――」
「パイクは……」
ヴァレリアが圭介を見る。
「もう捕まった」
圭介は動かなかった。
動けなかった。
ただ、対岸を見ている。
リシアがいた場所を。
やがて。
馬がゆっくり歩き出した。
圭介は何も言わなかった。
ただ――。
拳を握っていた。
その夜
ヴァレリアのアジト。
いつもなら騒がしい場所だった。
酒。
笑い声。
下品な冗談。
銃の自慢。
だが、今夜は違った。
誰も大声で笑わない。
テーブルの上にはテキーラ。
ヴァレリアが瓶を一本、圭介に差し出した。
「飲め」
圭介は受け取る。
「……ありがとう」
瓶をそのまま口に付ける。
喉を鳴らす。
ヴァレリアが隣に座った。
「ケースケ」
「うん」
「……悪かった」
「何が?」
「パイクのことだ」
圭介は答えない。
瓶を握ったまま、俯く。
「たぶん、保安官事務所だ」
「国境沿いの街?」
「ああ」
圭介が再び酒を飲む。
「……縛り首かな」
ヴァレリアが目を伏せた。
「ああ」
「裁判は?」
「普通なら数週間後だ」
「普通なら?」
「保安官を撃ってる」
ヴァレリアは短く息を吐く。
「恨みを買ってりゃ……」
「尋問のあと」
一拍。
「そのまま、ってこともある」
圭介は黙った。
瓶を置く。
視線を上げる。
窓の外。
満天の星。
日本にいた頃なら。
こんな夜空を眺めることもなかった。
朝起きて。
学校へ行って。
仕事をして。
飯を食って。
眠る。
そんな生活。
普通の生活。
それを、ずっと欲しがっていた。
なのに。
今は。
目の前にいる仲間たち。
荒野。
銃。
馬。
密輸。
そして――。
対岸に残された女。
圭介は長く目を閉じた。
迷っていた。
怖い。
当然だ。
戻れなくなる。
今までの生活には。
もう。
戻れなくなる。
それでも。
拳を開く。
そして、もう一度握る。
圭介は星空を見上げた。
しばらくして。
ヴァレリアを見る。
「……お願いがあるんだ」
その声に、迷いはなかった。
ヴァレリアは圭介を見る。
少しだけ目を細める。
「……ああ」
そして。
「いいぜ」
それだけだった。
圭介は立ち上がった。
テーブルの上に置かれたライフルを見る。
手を伸ばす。
銃床に触れる。
その瞬間。
圭介の中で何かが切り替わった。
普通の生活。
その言葉を。
静かに、置いていく。
窓の外では、荒野の風が吹いていた。
――夜は、まだ長い。
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