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第55話 「行ってくる」が、こんなにも嬉しいなんて。

 日干しレンガで造られた家。


 その小さな窓から。


 朝の光が差し込んでいた。


「……っ」


 リシアは目を覚まし。


 ゆっくりと上体を起こす。


 そして。


 額を押さえた。


「頭いてえ……」


 ずきん。


 ずきん。


(昨日、飲みすぎたか……)


 視線を動かす。


 丸テーブルの上。


 そこには。


 空になった酒瓶が――二本。


「……」


 リシアは黙った。


 しばらく。


 黙った。


「飲みすぎたな」


 ぽつり。


 圭介と一緒に飲んだ。


 その記憶はある。


 笑った。


 喋った。


 映画の話もした。


 何を話したのか。


 細かいところは。


 もう曖昧だった。


 けれど。


 確かに。


 楽しかった。


(あいつ……)


 リシアは隣を見る。


 ベッドには。


 自分しかいない。


 圭介の姿はなかった。


「……」


 胸の奥が。


 ほんの少しだけ。


 空っぽになる。


 その時だった。


「ご飯できたよ〜」


 奥から。


 のんきな声が聞こえた。


「……」


 リシアは顔をしかめる。


「頭に響く……」


 昨夜の自分を恨みながら。


 ベッドから降りた。


(隠れ家に来たとはいえ)


 圭介がいる。


 完全に安全な場所とは言えない。


 それなのに。


 あれだけ飲んで。


 熟睡していた。


(我ながら)


(気を抜きすぎたな)


 アウトレイジバンチにいた頃なら。


 あり得ない。


 眠る時だって。


 常にどこかで気を張っていた。


 物音。


 気配。


 窓の外。


 扉。


 いつでも。


 すぐ動けるように。


 銃だって。


 手を伸ばせば届く場所に置いていた。


 なのに。


 昨日の自分は。


 何の警戒もしていなかった。


 圭介が。


 隣にいたからだ。


「……馬鹿らしい」


 リシアは小さく呟いた。


 自分で自分が。


 少し。


 嫌になった。


 それでも。


 靴を履く。


 扉を開ける。


 すると。


 途端に。


 香ばしい匂いが鼻をくすぐった。


「……?」


 キッチン兼リビング。


 そこにあったのは。


 朝食だった。


 丸テーブルの上に。


 トルティーヤ。


 目玉焼き。


 豆のペースト。


 刻んだ玉ねぎ。


 そして。


 湯気の立つコーヒー。


「……ウエボス・ランチェロスか」


「たぶん」


 圭介が笑う。


「たぶん?」


「見様見真似だから」


「おい」


「材料もあんまりなかったし」


 圭介は小さな瓶を差し出した。


「これで我慢して」


「チリソース」


「うん」


 リシアは瓶を受け取る。


 そして。


 料理を見る。


 圭介を見る。


 もう一度。


 料理を見る。


「お前……」


「うん?」


「メヒクトリ料理、作れんのか」


「よく分かんないけど」


 圭介は肩をすくめた。


「発酵させないパンなんて」


 一拍。


「だいたい、作り方は同じだよ」


「……」


「後は」


 圭介は笑う。


「材料次第」


 ふふっ。


 思わず。


 リシアの口から笑いが漏れた。


「凄えな」


「そう?」


「ああ」


 席に座る。


 フォークを手に取る。


 ひと口。


「……」


 もうひと口。


「どう?」


 圭介が。


 少し不安そうに聞いた。


 リシアは。


 ゆっくり頷く。


「うん」


「うん?」


「いいな」


 もう一口。


「最高だ」


「ほんと?」


「ああ」


 圭介の顔が。


 ぱっと明るくなる。


「よかった」


「……」


 リシアは。


 その顔を見た。


 何でもない。


 ただ。


 朝食を作った。


 それを。


 美味しいと言われた。


 それだけだ。


 なのに。


 どうして。


 こんなに。


 心が満たされる。


(いいな)


 コーヒーの湯気。


 朝の光。


 目の前には。


 安心したように笑う男。


(この生活)


 何でもない。


 特別でもない。


 誰かから見れば。


 退屈かもしれない。


 でも。


(満たされる)


 今まで。


 こんなこと。


 ほとんどなかった。


 誰かと一緒に朝を迎えて。


 朝食を食べて。


 他愛ない話をする。


 それが。


 こんなにも。


 温かいものだなんて。


「……」


 リシアは目を閉じた。


 胸の奥が。


 少しだけ痛い。


(私は)


(こんなことすら)


(知らなかったんだな)


 そう思うと。


 急に。


 寂しくなった。


 自分の人生が。


 少しだけ。


 可哀想に思えた。


「……はあ」


 大きなため息。


「どうしたの?」


「何でもない」


 すぐに。


 いつものリシアへ戻る。


 マグカップを置いた。


「私は今から外出する」


「じゃあ」


 圭介が立ち上がりかける。


 リシアは。


 人差し指を立てた。


「いや」


「お前は留守番だ」


「えっ」


「仕事だ」


「仕事?」


「ああ」


「伝手がある」


「……」


 圭介が。


 じっとリシアを見る。


「それって」


「うん?」


「もしかして」


 目を細める。


「いつもの?」


「……」


 リシアは。


 ふっと息を吐いた。


 そして。


 優しく笑う。


「心配するな」


「普通の仕事だ」


「何も盗まない」


「誰も傷つけない」


「ほんと?」


「ほんとだ」


「……」


 圭介は。


 少しだけ迷った。


 それから。


 ほっとしたように息を吐く。


「よかった」


「信用してないな?」


「心配してるだけだよ」


「同じようなもんだろ」


「違うよ」


 リシアは笑った。


 その言葉が。


 妙に嬉しかった。


 心配されること。


 待っていると言われること。


 それすら。


 今までの自分には。


 あまり縁がなかった。


「ここは」


 リシアの声が少し低くなる。


「ロス・パソスより治安が悪い」


「うん」


「男が一人で出歩くな」


「分かった」


「あと」


 テーブルを見る。


「銃を持ってろ」


「え?」


「携行しろ」


「でも」


「大丈夫だとは思う」


 一拍。


「でも、持ってろ」


「……うん」


「いいな?」


「うん」


 圭介は頷いた。


 それを確認して。


 リシアは席を立つ。


「じゃあ」


「行ってくる」


 すると。


「待って」


「ん?」


 圭介が奥へ行く。


 何かを持って戻ってきた。


 紙袋。


「はい」


「……何だ?」


「これ」


 受け取る。


 少し重い。


 リシアは。


 紙袋を凝視した。


 そして。


 首を傾げる。


「もしかして」


「うん」


「弁当か?」


「うん」


「昼までに帰るの?」


「いや」


「夕方だ」


「じゃあ」


 圭介は笑う。


「食べて」


「……」


 リシアは。


 紙袋を見た。


 弁当。


 ただの弁当だ。


 別に。


 大したものじゃない。


 けれど。


 なぜだ。


 胸の奥が。


 こんなにも。


 温かい。


「……ありがとな」


 思わず。


 リシアは圭介を抱きしめた。


「えっ」


 圭介が固まる。


「り、リシア?」


「静かにしろ」


「いや、何も言ってないよ」


「いいから黙ってろ」


「うん」


 圭介の背中に。


 腕を回す。


 もう少し。


 このままでいたい。


 そう思った。


(……ああ)


(駄目だな)


 ますます。


 離れたくなくなる。


 リシアは。


 少しだけ身体を離した。


 圭介の顔を見る。


「……」


 そして。


 軽く。


 唇を重ねる。


「……っ」


 圭介が。


 目を丸くする。


 リシアは。


 笑った。


「じゃあ」


 玄関へ向かう。


「行ってくる」


「うん」


 圭介が笑う。


「行ってらっしゃい」


 その言葉で。


 足が止まりそうになった。


「……」


 リシアは。


 振り返らない。


 振り返ったら。


 仕事なんて。


 行きたくなくなる。


「……ああ」


 それだけ言って。


 扉を開けた。


     *


 外へ出る。


 眩しい朝日。


 白い日干しレンガの街。


 馬に乗る。


 紙袋を。


 大切に鞄へ入れた。


「……」


 手綱を握る。


 そして。


 小さく呟く。


「まあ……」


 一拍。


「嘘はついてないしな」


 普通の仕事。


 盗まない。


 誰も傷つけない。


 全部。


 嘘ではない。


 ただ。


 圭介には。


 言っていないことがあるだけだ。


「……」


 馬を走らせる。


 白い街並みを抜ける。


 乾いた風が。


 頬を撫でた。


 後ろを。


 見ない。


 今。


 振り返ったら。


 あの家へ戻りたくなる。


 圭介の待つ場所へ。


 朝食の匂いがする場所へ。


「夕方には帰る」


 誰に言うでもなく。


 リシアは呟く。


 それだけの約束。


 未来の約束じゃない。


 永遠の誓いでもない。


 ただ。


 今日。


 夕方。


 帰る。


 今のリシアには。


 それで充分だった。


 充分すぎるほど。


 幸せだった。


 ――だからこそ。


 その幸せを。


 まだ。


 素直に受け取ることができない。


 リシアは馬を走らせる。


 白い日干しレンガの街を。


 “仕事”へ向かって。

☆ここまで、読んでくださり、ありがとうございました。


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