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第52話 胃液の味の初恋と、悪魔に売った寿命の重さ

 ザッ、ザッ、ザッ。


 川砂に深い一本の溝が刻まれる。


 川岸へ這い上がった圭介は、濁流から引き揚げたリシアの襟首を掴み、必死の思いで陸へ引きずり倒した。


「ハぁ……ハぁ……!」


「 不味いな、息をしてない……っ!」


 ぐったりと気を失い、砂浜に仰向けに倒れるトリア。


 リシアの乾かないシャツのボタンを弾き飛ばすように外し、胸元へ手を当てて心臓マッサージを開始した。


 1、2、3──。


 そして、力任せに彼女の顎を引き上げ、己の唇を強く重ね合わせた。


 ──人工呼吸。


 ドクン!


「ゴホッ! ゲホッ……!!」


 突如、リシアの身体が大きく跳ね上がった。


 勢いよく口から噴き出される大量の川水。


──そして、胃液の混ざった酸っぱい液体が、至近距離にいた圭介の顔面を直撃した。


「……」


 見事なジト目になる圭介。


 腕で乱暴に顔を拭うが、口の中に残る苦く酸っぱい味に、思わず顔を盛大に歪めた。


「……ふぅ。」


「まあ、映画みたいにロマンティックなキスとはいかないよね」


「ゴホッ! ゲホッ、ゲホッ……!」


 喉を鳴らして激しくむせぶリシア。


 圭介はホッと胸を撫で下ろし、彼女の背中を優しくさすった。


「よかった、意識戻ったね」


 そう言って柔らかく微笑む青年。


 それを見上げたリシアは、しばらく呆然とした後──。


「……ふふっ、ハハハハっ!」


 腕で自分の目を覆い、全身を震わせて爆笑し始めた。


「これでもな……」


「ファーストキスだったんだぞ……っ!」


「胃液だよ。」


「苦いし、酸っぱいし、最悪」


 肩をすくめる圭介。


「「ははははははっ!」」


 二人の笑い声が、静かな川辺に爽やかに響き渡った。



 それから、小一時間後。


 パチ……パチ……。


 暗闇の中で、小さな焚き火が爆ぜる。


 木々の枝には、濡れたシャツやズボン、帽子が乾かすために引っ掛けられていた。


 下着姿の圭介と、濡れた薄手のシャツを一枚羽織っただけのリシア。


 二人は膝を抱え、静かに炎を見つめていた。


「はい」


「……ああ」


 圭介からマグカップを受け取る。


 一口啜ると、ホッと吐息を漏らした。


「美味しいな……」


「身体にしみる」


「うん。ビスケットと乾燥豆があったから、コンソメでスープにしたよ。」


「濡れて冷えちゃったからね」


 圭介はリシアの方を直視できず、明後日の方向を向いたまま答える。


 ほとんど下着姿のリシアの、溢れんばかりの肉体が視界に入るだけで爆発しそうだった。


「こっちを見ないのか?」


 リシアが好意的に、悪戯っぽく囁く。


「う、うん……いや……っ」


 顔を真っ赤にして言い淀む圭介。


 リシアはすべてを見透かしたように、自嘲気味にスープを啜った。


「そうか。」


「こんなブスじゃあ、見ても面白くないもんな」


「そんなことない!!」


 圭介は思わず地面に手を突き、リシアの顔を真正面から見つめ返した。


 目が合う。


「……やっと、こっちを見てくれたな」


 リシアの微笑み。


 圭介の視線の先には、濡れたシャツ一枚の下から透ける豊満な胸元と、下着から伸びるしなやかな太もも。


「あ……っ!」


 瞬時に顔を沸騰させる圭介。


 リシアは優しく、しかし妖艶に目を細めた。


「お前は……あの女しか見ていなかったからな。」


「……やっと私を見てくれた」


 冷たい夜風が吹き抜ける。


「もう少し、こっちに来い。」


「寒くなるぞ」


 リシアは大きな毛布を広げ、圭介を引き寄せた。


 二人で一枚の毛布にくるまる。


 重なる肌と肌。触れ合う肩。


 お互いの荒い息遣いと、跳ねる心臓の鼓動が、はっきりと聴こえるほどの至近距離。


(あぁ……幸せだ。)


(この温もり……)


(この瞬間が)


(ずっと続けばいいのに……)


 リシアの胸に、甘い狂気が満ちていく。



「なあ、ケースケ」


「ん?」


「もう……」


「私の気持ちは知ってるな?」


 リシアの鋭い眼が、圭介の瞳を真っ直ぐに射抜く。


「うん……」


「あの女に……」


「エレノアに、まだ未練があるんだろ?」


「うん。……」


「ごめん、リシアの気持ちには──」


 言いかけた瞬間。


 ドンッ!!


 リシアが圭介の肩を掴み、そのまま砂の上に押し倒した。


 巨大な胸が圭介の胸に押し潰され、吐息がかかるほどの距離。


「つれないじゃないか……ケースケ」


 濡れた髪が圭介の頬にかかる。


「私はな……悪魔に寿命を売ったんだ」


「……っ!?」


「全部、お前のためだ」


 リシアは首を横に振った。


 瞳の奥に、暗い炎が燃え盛っている。


「お前の気持ちなんて関係ない。」


「……私を、こんな気持ちにさせた責任は取ってもらうぞ」


 そう言うと、リシアは逃げる間も与えず、圭介の唇を自分の唇で強く塞いだ。


 長い、熱い口づけ。


 離れた瞬間


 リシアは懐から冷たいリボルバーを抜き出し、圭介の顎下へ突きつけた。


「いいか……」


「私はもう、二十七だ。」


「後がないんだよ」


「リシア……!?」


「お前は、私のものだ。」


「……嫌なら、今ここで殺す」


 リシアの指が動く。


「そして……」


「私も後を追って死ぬ」


 ──カチッ。


 空虚な金属音が響いた。弾は入っていない。


 圭介の身体が小さく跳ね上がる。


「エレノアを選んでも同じだ。」


「あの女には絶対渡さない……っ! 」


「私は、お前が思うよりずっと嫉妬深いんだ……」


 リシアは狂おしそうに、何度も、何度も圭介の唇を貪った。


 薄いシャツを脱ぎ捨てるリシア。


 月明かりの下、暴力的なまでに美しい肉体が露わになる。


 彼女は圭介の黒髪を愛おしそうに撫で下ろした。


「お前が好きだ……」


「ケースケ……っ」


 重なり合う二人の身体。


「未来なんて、どうでもいい。」


「お前といる『今』だけが……」


「私の全てだ……っ」


 冷たい夜風のなか、二人だけの熱狂が荒野を溶かしていく。


 過剰なまでの快感と愛執の渦の中で


 満天の星空だけが、二人を静かに見おろしていた──。

☆ここまで、読んでくださり、ありがとうございました。


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