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第29話 孤独たちの聖夜、運命が重なる唇

 朝からの気まずい沈黙を引きずったまま、夕方を迎えた。


 西日の差し込むシスター執務室。


 ミリアムは事務作業。


 圭介は机で聖書を開いていた。


「シスター」


「何かしら」


「すみません。ここ、よく分からなくて……」


 圭介が古い羊皮紙の一節を指さす。


 ミリアムが椅子の背後から、肩越しに顔を寄せた。


 さらり、と髪が圭介の耳に触れる。


 甘い香気。


 圭介の胸が跳ねた。


「どれ。どこ?」


「ここです」


 圭介の指の先。


「『目を閉じよ。汝のおおそれは、己の中にあり……』ここから先が」


「そうね」


 ミリアムの唇が、圭介の耳元で動く。


 吐息が肌を撫でた。


「『目を閉じよ。汝のおそれは、己の中にあり、信仰を持って踏み出せば、互いの心を分かち合い、融和へと至るであろう』……だわ」


「融和」


「お互いの弱さをさらけ出し、相互理解を深める意味よ」


 近い。


 振り返れば、すぐに唇が触れる距離。


(すごく、いい匂い)


 ミリアムの視線が、圭介の唇に落ちる。


(男の人って、こんなに……)


 思わず、目を閉じた。


 理性が消えかけていく。


 孤児にも優しい。


 老人にも優しい。


 文句も言わず、見返りも求めない。


 教会の雑用すら、いつも笑顔。


 そして。


 自分を「尊敬するシスター」として真っ直ぐに見てくれる。


 そんな男は、人生で初めてだった。


「『……目を閉じよ』」


「『汝のおそれは……』」


 二人の声が重なる。


 引き寄せられるように、距離が消えていく。


(このまま、ケースケと)


「『……互いの心を分かち合い』」


「『融和へと』」


 触れるか。


 触れないか。


(近い……)


(どうして私は)


(離れなきゃ……)


(でも、離れたくない)


 ガチャリ。


 静かに、ドアが開いた。


「迎えに来たぞ」


 エレノアだった。


 凍りつく室内。


 ミリアムが息を呑んで顔を上げる。


 圭介が振り返る。


 エレノアだけが、入り口で動かない。


 触れそうな二人の唇。


 その光景だけを見つめていた。



「……なんでだ」


 かすかな、震える声。


「違うのよ、エル。これは」


「もういい」


 エレノアはミリアムの言葉を遮った。


 圭介の手首を強く掴む。


「帰るぞ」



 終始、無言だった。


 帰り道も。


 夕食の間も。


 食器の擦れる音だけが響く。


 就寝前。


 リビングの灯りの下、エレノアが静かに口を開いた。


「もう明日から、仕事には行くな」


 低く、冷え切った声。


「でも……」


「でもじゃない。危険だ」


 エレノアはゆっくりと立ち上がる。


 叫ばない。だが、瞳の奥にどす黒い怒りが満ちていた。


「シスターだって、お前を狙ってる」


「誤解だよ」


 圭介の声が小さく濁る。


「あれが、誤解か」


「エル」


「キス寸前のあれが、誤解だと言うのか」


「それは……」


「とにかくお前はここにいろ。いいな」


 一方的な命令。


 圭介は拳を握りしめた。


「なんで、そんなことが言えるのさ」


「何だと」


「君は僕の何?」


 沈黙。


 時計の針の音だけ。


「ただの同居人だよ」


 エレノアの肩が、ピクリと震えた。


 その一言は、どんな大口径の銃弾よりも重かった。


 家族ではない。


 恋人でもない。


 行き倒れを拾い、労り合っていただけの、名前のない関係。


 エレノアは、何も言い返せなかった。


「もういい……」


 圭介が首を振る。


「出ていく」


「……っ」


「今までありがとう」


 圭介は自分の部屋へ向かった。


 エレノアは、その後ろ姿をただ見つめる。


(言うんだ)


(行かないでくれと)


(ここにいてくれと)


 けれど、言葉が出ない。


 身体が動かない。


 醜女と蔑まれてきた歪んだプライドが、好意を口にすることを拒ませる。


 圭介が小さな荷物を持って戻ってきた。


 玄関のドアを背にして立つ。


「じゃあ。今までありがとう」


「行くな」


 エレノアの声は、地を這うように静かだった。



 ドン、と圭介の体が玄関のドアに押し付けられる。


 エレノアが眼前にいた。


 熱い吐息がかかる距離。


「行かせない」


 真っ直ぐな、射抜くような視線。


「離して、エル」


「だめだ」


「離してよ」


「嫌だ」


 少しの間。


 エレノアの目から、大粒の涙が溢れた。


「いつも孤独だった……」


 縋り付くように、圭介の肩に額を押し付ける。


「家族も」


「友達も」


「みんな死んだ」


「……」


「おまけに、こんな見た目だ。」


「誰も相手にしてくれなかった」


 エレノアの指が、圭介のシャツをきつく握りしめる。


「なんとか生きようと必死だった。」


「腕っぷししか取り柄がない」


「頭の悪い俺に……」


「お前が初めて……」


 声がかすれる。



「お前に、俺の気持ちがわかんのかよ……っ」




「わかるよ!!」


 圭介が、生まれて初めての大声で叫んだ。


 その瞳からも、涙が溢れて止まらない。



「小さいときから病院と家の往復で」


「父さんも母さんも死んで」


「ケースケ……」


「相手にしてくれるのは、兄貴だけだった」



「病院のベッドの窓から」


「外の奴らをずっと見てたんだ!」


 前世の絶望が、堰を切ったように溢れ出す。


「みんな、色んな経験をして成長して」


「キラキラ輝いて見えた」


「なのに」


「俺だけベッドの上」


「俺が何したって言うんだよ!」



 エレノアの身体が固まる。


「普通に」


「学校に行きたかった」


「友達と他愛のない話をして」


「それだけでいいのに……」


「余命半年ってなんだよ!」


 圭介はエレノアの胸に顔を埋めた。


「せっかくここに来て」


「自由になれたのに……」


「みんなと」


「同じになれたのに」


「……っ」


 圭介もまた

 自分と全く同じ、深い闇の底で泣いていた孤独な存在だったのだと。


 細い身体を、折れんばかりに強く抱きしめる。


「お前のことが好きだ」


「エル……」


「どうしようもないくらいに」


「愛してる。」


「行くな」


 圭介もまた、エレノアの背中に腕を回した。


「……僕も」


「君のことが好きだ。」


「君のいる、この家が」


「圭介……」


 エレノアが静かに目を閉じる。


 圭介も、顔を上げた。


 二人の距離が、ゆっくりと、完全に消滅する。


 重なった唇は、驚くほど熱かった。


 涙の味が混ざり合い、熱い息が絡み合う。


 魂を分かち合う本当の恋人へ。


 二人の長い孤独が、美しく終わりを告げた夜だった。

☆ここまで、読んでくださり、ありがとうございました。


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