第28話 硝煙の女と聖なる女、すれ違う夜の涙。
ステンドグラスから差し込む柔らかな光が、教会のシスター執務室を照らしていた。
銀縁眼鏡を押し上げ、机の上の書類に目を通していたミリアムは、驚きに細い眉をピクリと跳ね上げた。
「いいわね、ケースケ。」
「報告書、もの凄く分かりやすく要点がまとまっているわ」
「本当ですか? よかったです」
圭介はほっとしたように、一点の曇りもないにこやかな笑顔を浮かべた。
「ええ。それだけじゃないわ。」
「あの壁のボードにスケジュールを書いておいてくれたのも助かるし、一日のタスクリストと進捗状況の見える化なんて、この街の役人でも思いつかないわよ。」
「本当に感心したわ」
「ありがとうございます。」
この辺境の荒野において、字が書けて計算ができる人間は極めて少ない。
だが、目の前の少年は有能というレベルを遥かに超越していた。
ミリアムは机の引き出しから、ずっしりと重い皮の古書を取り出した。
聖書とその概論書だ。
「これ、時間のある時に読んでおいてね」
「ん? ……これ、ラテン語ですよね」
パラパラとページをめくる圭介を見て、ミリアムの目がわずかに見開かれる。
(あら、一目でラテン語だと理解できるのね?)
「ええ。一応辞書も置いておくわ。」
「もし分からなければ、私が夜にでもマンツーマンで教えてあげるけれど?」
あえて専門的な、神学校の研究者レベルのハードルを用意して、青年の反応を値踏みしてみた。
困った顔で自分を頼ってくれれば、距離を縮める口実になる──そんな冷徹な聖女の計算。
しかし、圭介は事もなげにページをパラパラとめくり、
「あ、大丈夫そうです。」
「大学の一般教養でスペイン語とラテン語を少し齧ってたので、辞書があればなんとかなると思います。」
「……うん、うん。なんとなく読めますね」
納得したようにコクコクと頷く圭介。
ミリアムは、完璧なポーカーフェイスの下で激しい衝撃を受けていた。
(信じられないわ……。)
(これ、神学校の高等課程でも悲鳴を上げる内容よ? ……)
(いいわね。この子、本当に欲しいわ。)
(絶対に私の教会にしてみせる)
そして、圭介が教会で働き始めてから、毎日のミサに明らかな異変が起きていた。
明らかに、参拝の数が跳ね上がっている。
「──神の慈悲は、常に皆さんと共にあります」
壇上でミリアムが厳かに聖書を読み上げているというのに、礼拝堂を埋め尽くした女性たちの視線は、全く別の方向へ注がれていた。
その先にいるのは、ゆったりとした白いチュニック(見習い服)を身にまとった圭介だ。
ただそこに佇んでいるだけで、儚げな青年は、飢えた荒野の女たちにとっての聖域と化していた。
客席からは、不純極まりないひそひそ話が絶え間なく聞こえてくる。
「ちょっと、今日もいるわよ、あの可愛い子……」
「シスターに聞いたら、事務の見習いなんですって。」
「ああ、神様感謝します。目の保養すぎるわ……」
「ミサの後に声かけちゃおうかな。」
「お茶に誘ったら来てくれるかしら?」
(……はぁ。まあ、仕方ないですね)
ミリアムは頬に手を当て、内心でため息をついた。
神聖な祈りの場に不純な目的で来られるのは困るが、彼女たちが置いていく寄付の額が従来の5倍に跳ね上がっているため、文句の付けようがなかった。
そしてミサが終わるや否や、女たちが一斉に圭介の元へと殺到する。
「ケースケくん、これ街で人気のクッキーなんだけど!」
「今度の日曜日、うちの農場でお茶会があるの。来ない?」
そんな肉食獣たちに囲まれながらも、圭介は困ったような、しかし完璧に品のある笑顔でやんわりと全突撃をいなしていた。
「ありがとうございます。」
「でも、この後すぐに仕事がありますので。すみません」
その様子を、礼拝堂の最後列、影の中から恐ろしい形相で見つめている女がいた。
──エレノア・ウエストウッドである。
(面白くない。……実に、面白くない。)
(なんなんだあいつらは。)
(馴れ馴れしく触ろうとしやがって……! )
(あいつは、俺だけのバディだぞ……っ!!)
ギリ、と奥歯を噛み締め、怒りでコルトのグリップをへし折りそうになりながら、エレノアはミサが終わると同時に、逃げるように自分の職場へと戻るのだった。
夕方。
オレンジ色の壮大な夕陽が荒野を染める頃、エレノアは約束通り、教会の門前へ圭介を迎えにいった。
帰り道、一頭の馬に二人で跨り、心地よい揺れの中で家へと向かう。
そして夕食の時間。
テーブルを挟み、圭介は今日あった教会の出来事を、本当に楽しそうに話し始めた。
しかし、その話題のほとんどが──ミリアムのことだった。
「いやぁ、ミリアムさんって本当に凄いよね。」
「自分の仕事も忙しいのに、貧しい人たちのための慈善活動まで完璧にこなしてさ」
「……へえ。そうかよ」
「頭も良くて、綺麗で、品行方正で、本当に尊敬しちゃうな。」
「僕も見習わなきゃ」
(綺麗で、品行方正……だと? )
(あいつのドス黒い本性を教えてやりたいぜ)
(くそったれが……)
エレノアは苦々しくチキンを噛み締めた。
圭介に悪気は一切ない。
前世では病弱で寝たきりだった。
この世界で初めて「社会の役に立てた」ことが嬉しくて、ただ純粋に、大好きなエレノアに報告したかっただけなのだ。
「ねえ、エル。」
「エルは今日、仕事どうだった?」
無邪気に首を傾げて聞いてくる圭介。
そのキラキラとした眩しい瞳を見た瞬間、エレノアの胸の奥で、ドス黒い劣等感と嫉妬がブワリと跳ね上がった。
「……俺の仕事なんて、知ってるだろ」
「え?」
エレノアはナイフを乱暴に皿へ置き、吐き捨てるように言った。
「酒場の酔っ払いを殴り飛ばして、肥溜めにぶち込む。」
「逆らう悪党の足を撃ち抜いて、牢屋へ引きずり回す。」
「お前の大好きなシスター様とは大違いの、血生臭くて汚い仕事さ」
「エル……?」
(違う。)
(くそっ)
(なんでこんな言い方になっちまうんだ……!?)
エレノアは自分の言葉にハッとしたが、口から出た棘は戻らない。
気まずそうな圭介の顔を見て、さらに胸が締め付けられる。
「……もしかして、怒ってる?」
「──もういい。食欲がなくなった」
エレノアはガタッと椅子を蹴立てて立ち上がると、棚からバーボンのボトルを掴み、そのまま荒々しい足取りで外へ出ようとした。
「エル! 待って!」
「すまねえ、ケースケ。」
「……少し、一人にしてくれ」
引き止める圭介の声を振り切り、エレノアはバタンと激しくドアを閉めた。
夜の冷気が肌を刺す。
玄関の木階にドカッと腰掛け、バーボンのボトルを開けると、ラッパ飲みで一気に喉へ流し込んだ。
カッと焼ける熱さ
しかし
胸の痛みを消してはくれない。
「……くそっ」
「なんで、あんなこと言っちまったんだよ……っ」
膝の間に顔を埋め、エレノアは強く拳を握りしめた。
「なんで……あいつが楽しそうにしてるのを、一緒に喜んでやれないんだ、俺は……!」
押し寄せる感情の濁流に、脳が破裂しそうだった。
他の女に取られるんじゃないかという、狂おしいほどの独占欲。
人殺しの技術しか持たない自分から、教養のあるあいつが離れていってしまうのではないかという焦り。
そして、白くて綺麗な服を着て、あいつと知的な会話ができるミリアムへの、激しい嫉妬。
そして──それら全てを包み込むような、圧倒的な「孤独感」。
また、あの何もなかった、硝煙と砂まみれの一人の荒野に逆戻りするのだろうか。
あいつのいない、冷え切ったベッドに。
「嫌だ……。」
「戻りたくねえよ……」
世界の果てのように美しい、満天の星空の下。
西部の荒野で数多の悪党を葬ってきた『死神』エレノアの、誰よりもウブで脆い頬を──一筋の透明な涙が、静かに伝い落ちていくのだった。
☆ここまで、読んでくださり、ありがとうございました。
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