第25話 荒野へ消えた狐
深夜。
フロンティアの乾いた風が、木造りの隠れ家の隙間から、ひゅうひゅうと寂しげな口笛を吹き込んでいた。
リビングの古ぼけたソファの上。
黒革のジャケットを脱ぎ捨てたエレノアは、寝返りを打つフリをして、薄く目を開けた。
視線の先――床に敷いたシーツの上では、褐色の肌を持つ狐獣人、ヴィクトリア・“ジャンゴ”・フォックスが横たわっている。
短く整えられた黒髪。
野生動物さながらのしなやかな肢体は、今は静かに上下していた。
(……寝たか)
エレノアはシーツの動きが完全に止まったのを見届けると、ムクッと音もなく起き上がった。
指名手配犯の頭を百ヤード先から正確に撃ち抜くその身のこなしで、完全に気配を消す。
埃っぽい床の軋みすら殺し、ゆっくりと廊下へ向けて爪先を運ぶ。
この世界で「最底辺の醜女」と蔑まれる、透き通るような色白の長い脚が、月光を浴びて妖しく艶めいていた。
あと一歩で、リビングを脱出できる。
そう確信した、その瞬間だった。
「――頑張れよ」
フッと、獣特有の温かい鼻息と共に、低くからかうような小声が背中に突き刺さった。
ギギギギギ、と錆びついたボロ銃のような音を立ててエレノアが振り返る。
いつの間にか、ジャンゴが片目をあけてニヤリと不敵な笑みを浮かべていた。
狐の耳が、愉しげにピクリと動く。
「な……っ、ジャンゴ、お前っ……!」
「いいじゃねえか。」
「所帯を持つんだろ? 」
ジャンゴはそれだけ言うと、ふいっとエレノアに背を向け、毛深い尻尾をパタパタと振った。
突き上げられた右手は、親指を立てる“グッドラック”のジェスチャー。
「……フン、余計なお世話だ」
エレノアは耳まで真っ赤に染めながら、足早に廊下へと逃げ出した。
圭介の部屋の前。
エレノアの胸は、まるで早撃ちの決闘前のように激しく高鳴っていた。
ゴクリと、繊細な喉仏が鳴る。
(いいって……昼間、あいつは確かに言ったよな)
『いいよエレノア。僕の身体、好きにして。馬乗りになったって構わないから』
圭介の、あの無垢で無防備な笑顔が脳裏をよぎる。
意を決して、ゆっくりとドアを開ける。
「……あ」
ベッドの上で、黒髪の少年がすやすやと眠っていた。
彼が身にまとっているのは、サイズが大きすぎてダボついたエレノアの白いシャツだ。
はだけた襟元から、色白で華奢な鎖骨が覗いている。
エレノアのベッドで。
エレノアの匂いに包まれて。
ただそこにいるだけで、エレノアの荒んだ心がとろけていく。
(……我慢、できるわけないだろ)
ゴクリ。
エレノアは長い脚をベッドにかけ、ゆっくりと圭介の身体をまたいだ。
そっと重なるように、馬乗りになる。
両手を圭介の顔の横につき、上から覗き込む。
互いの鼻先が触れ合うほどの、わずか十センチの距離。
エレノアの豊かな胸が、圭介の胸元に柔らかく押し当てられた。
ハァ、ハァ、と昂ぶる吐息が、青年の頬を優しく撫でる。
その時、圭介の長い睫毛が震え、瞼がゆっくりと持ち上がった。
「ん……エレノア? 来てくれたんだ……」
寝ぼけ眼の圭介は、目の前の「絶世の美貌(この世界では醜女)」を見るなり、ふにゃりと愛おしそうに微笑んだ。
そして、細い両腕をエレノアの首に回し――ぎゅっと、その身体を抱き寄せた。
(えっ、えっ、ええええええーーーーーーーっっっ!?)
エレノアの脳内が純情な大爆発を起こす。
男の免疫ゼロ、正真正銘の処女ガンスリンガーである彼女の心臓は、1秒に20発連射するガトリングガンのように跳ね上がった。
「じゃあ……いっしょに寝よ」
圭介はそのまま、エレノアの身体をごろんと横に引き倒した。
シーツの上で横並びに密着する二人。
密着度100%。
エレノアの大きな胸の谷間に、圭介の柔らかい黒髪がすっぽりと埋まる。
「君さえ、いれば……他に何も、いらないや……」
寝言のようにポツリと呟き、さらに腕の力を強める圭介。
その無自覚なタラシっぷりに、エレノアは顔中を熱くしながら、観念したようにふっとため息を漏らした。
「……ふっ。お前、ずるいぜ」
そっと、愛おしい青年の黒髪を撫でる。
この男は知らないのだ。
自分がツボニールによって結ばれた『運命の女』であることも。
この荒野のヤバい女たちが、全員自分と同じように、彼に狂い始めていることも。
「ああ……このままずっと、一緒にいられたらな」
エレノアの美しい碧眼が、切なく濡れる。
「お前は……最後まで、俺を選んでくれるのか?」
夜明けの光が部屋に差し込むまで、エレノアはその温もりを噛み締めるように抱きしめ続け――当然のように、一睡もできないまま明け方に部屋を出るのだった。
翌朝。キッチン。
目の下にべっとりと色濃いクマを作ったエレノアを見た瞬間、コーヒーを飲んでいたジャンゴがニヤリと妖艶に口角を上げた。
狐の尻尾が機嫌よさそうに揺れる。
「ふーーーん。やったな、エル?」
「……そんなんじゃねえよ」
エレノアは真っ赤な顔で顔を背け、苦笑い混じりにパンをかじった。
朝食後。
ジャンゴはパイクとダッチの追跡のため、エレノアの出勤に合わせて家を出ようとする。
玄関で、圭介がパタパタと小走りでやってきた。
その手には、丁寧に包まれた紙袋が二つ。
「はい、エレノア。それと――これ、ジャンゴの分」
「……あ?」
手渡された紙袋から、ふわりと香ばしい匂いが漂う。
獣人であるジャンゴの鼻は、それが「昨夜の残りの肉を使って、今朝この青年が一生懸命作った弁当」であることを瞬時に察知した。
しかし、あえて意地悪く、鋭い瞳で圭介を見下ろした。
「これは何だ?」
「お弁当だよ。昨日の残りのカラアゲで作ったサンドイッチだけど……口に合うといいな」
圭介が少し照れくさそうに、はにかむ。
その瞬間、ジャンゴの胸の奥で、カチリと何かの引き金が引かれた。
元奴隷として地獄を見てきた自分に、こんなに温かく、無償の優しさを向けてくれる男など、この荒野のどこを探してもいなかった。
「……ありがとよ。」
ジャンゴの鋭い瞳が、見たこともないほど優しくとろける。
彼女はしなやかな手で圭介の黒髪を愛おしそうに撫でると、そのまま――チュッと、圭介の白い頬に軽くキスをした。
「ーーーーーーっっっ!!!???」
横で見ていたエレノアが、文字通り石のように硬直する。
手にした愛銃コルトを落としそうなほどの衝撃。
「じゃあな、圭介。」
「昨日の話、よく考えておいてくれよ」
「え? 昨日の話って……?」
ポカンとする圭介に対し、ジャンゴはエレノアを親指で指し示しながら、不敵に笑った。
「エルのような『ブス』に飽きたら、いつでも俺のところに来い。」
「俺ならお前を、世界一の王様みたいに養ってやる」
「おいっ! 」
「もういいからお前はさっさと失せろ、ジャンゴ!!」
エレノアが般若のような顔で怒り狂い、腰の銃に手をかける。
ジャンゴはハハッと野性的に笑いながら、ひらりと身を翻して扉を開けた。その背中が、一瞬だけ寂しげにブレる。
「まあ、いいじゃないか。……これが、最後の別れになるかもしれないからな」
これから向かう渓谷の先にあるのは、血と硝煙の地獄だ。
ジャンゴはそれだけ言い残すと、荒野の眩しい光の中へと去っていった。
その日の昼。
ロス・パソスの荒涼とした渓谷。
赤茶けた岩肌が太陽に焼かれ、陽炎がゆらゆらと揺れるサイレント・ワールド。
ジャンゴは愛馬から降りると、岩の影に腰掛けた。
背中には愛用のライフル。
遠くでハゲタカが円を描いて飛んでいる。
ふう、と渇いた息を吐き出し、彼女は朝渡された紙袋を乱暴に破いた。
中から出てきたのは、不格好だが肉がぎっしり詰まったサンドイッチ。
そして――丁寧に折りたたまれた、一枚の白い紙切れ。
そこには、少し不器用な、だが心のこもった文字でこう書かれていた。
『体に気をつけて、お仕事頑張ってください。 無事を祈っています。 圭介』
「…………」
ジャンゴは静かにその紙を見つめ、それからサンドイッチを大きく一口、顎が外れんばかりに齧りついた。
モグモグと噛みしめる。
ジューシーな肉の旨味と、パンの甘みが広がる。
けれど。
ジャンゴの鋭い目から、一筋の涙がポロポロと溢れ出た。
それは褐色の頬を伝い、サンドイッチの上へと落ちていく。
「……不味いな」
誰もいない荒野の渓谷で、ジャンゴはぽつりと呟いた。
「しょっぱい。砂でも入ったか」
もう一口、むさぼるように齧る。
涙が止まらない。
胸の奥が、ちくちくと痛くて、同時にどうしようもないほど温かい。
「ほんとに不味い……あいつに、本気で惚れちまったじゃねえか」
元奴隷のジャンゴ。
誰の手も借りず、ただ自分の力だけで自由を掴み取ってきた孤独な牝狐。
そんな彼女の頑ななハートのド真ん中を、あの華奢な少年は、ただのサンドイッチと手紙一枚で完璧に撃ち抜いてしまったのだ。
「すまんな、エレノア。……あの男は、譲れねえ」
紙切れをそっと胸ポケット――心臓に一番近い場所に仕舞い込み、ジャンゴはライフルのボルトをガシャリと引いた。
その瞳には、すでに恋する女の甘さはなく、獲物を屠る『ジャンゴ』の野生の輝きが戻っていた。
荒野に、激しい一陣の風が吹き抜ける。
たった一人の愛しい青年を巡る、血と硝煙の抗争の幕が、今まさに上がろうとしていた。
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