第22話 狐は匂いで嘘を見抜く。
サルーン『エル・ドラド』での血湧き肉躍る飲み比べ決闘から、数日が過ぎた昼下がり。
辺境の荒野に佇むエレノアの家の前に、陽炎を払うような鋭い影が一つ、音もなく現れた。
太陽に美しく焼けた、褐色の肌。
男のように潔く、短く整えられた黒髪。
獲物の急所を決して逃さない、野性的な美しさを湛えた金色の瞳。
鮮やかな赤のフリル付きジャケットの上からでもわかる、極限まで引き締まったしなやかな筋肉。
ジーンズの細長い脚の先には、砂埃をまとった頑丈なブーツ。
しかし、何よりその存在を圧倒的に引き立てているのは、カウボーイハットの隙間から覗く狐の耳と、感情を隠しきれずに時折小さく揺れる、毛深い長い尻尾だった。
元奴隷にして、自らその牙で自由を勝ち取った孤高の賞金稼ぎ――ヴィクトリア・“ジャンゴ”・フォックス。
彼女は周囲の気配をその鋭い耳で察知しながら、無造作にドアノブへ手をかけた。
ガチャリ。
扉を開け、一歩足を踏み入れた瞬間、ジャンゴの野生の勘がピクリと作動した。
かすかに立ち止まり、狐耳を細かく動かす。
(……おかしいな)
漂ってくるのは、香ばしい料理の匂い。
そして、奥から聞こえる微かな物音。
この時間、この家の主であるエレノアはサローンに出払っているはずだ。
一匹狼の『死神』の家に、自分以外の誰かがいるなど、通常では有り得ない。
ジャンゴの瞳から一瞬で甘さが消え、手慣れた暗殺者の光が宿る。
完全に気配を消し、腰のホルダーから使い込まれた狩猟ナイフを抜いた。
刃が鈍く光る。
廊下の角を曲がると、キッチンに立つ人影の「後ろ姿」が見えた。
ツヤのある丁寧な黒髪。華奢で、労働の『ろ』の字も知らなさそうな貧相な背中。
(エレノアじゃない……!)
( 仇敵の刺客か!?)
ジャンゴは音もなく滑るように近づき、電光石火の速さでその背中に飛びついた。
容赦なく首筋へナイフの冷たい刃を突き立てる。
「動くな……」
鈴の音を振るような、凛とした硬質な声が圭介の鼓膜を震わせた。
同時に、ジャンゴの豊かな、それでいて引き締まった大きな胸が、圭介の背中にむぎゅっと力強く押し当てられる。
弾力のある強烈な肉体の感触が、圭介の背中を通じてダイレクトに伝わってきた。
「お、落ち着いてください……!」
圭介は突然の事態に心臓を跳ね上げながらも、必死に声を絞り出した。
ツボニールから貰った耐性はあっても、ナイフで首を切られたらひとたび終わりだ。
「お前、誰だ……。」
「ここで何をしていた」
ジャンゴが刃を数ミリ食い込ませながら低く問う。
「エレノアの、友達です!」
「嘘を言うな。」
「あいつに友達なんていない……」
「みんな死んだか、あいつが殺した」
「ほんとです!」
身も蓋もない西部の現実に圭介が戦慢していると、突然、ジャンゴの狐耳がピクピクと跳ねた。
「……ん?」
ジャンゴの鼻腔を、圭介の体臭がくすぐる。
それは、この世界の泥と汗と硝煙にまみれた女たちの臭いとは根本的に違う、どこか甘く、清潔で、本能を激しく揺さぶる未知の香気だった。
「お前……なんか、いい匂いがするな」
クンクン、とジャンゴは我慢できなくなったように、圭介の耳元やうなじに鼻先を寄せ、深く息を吸い込み始めた。
熱い吐息が直接肌にかかる。
「えっ、ちょっと」
「やめてください! 」
「くすぐったいです……っ」
身悶えする圭介の反応を見て、ジャンゴの脳内に奇妙な違和感が走った。
華奢なわりには、骨格がしっかりしている。
何より、声が妙に低い。
(なんだこいつ……?)
( なんでこんなに……)
(心地いいんだ?)
獣人としての本能が暴走し始める。
無意識のうちに、圭介の黒髪を鼻先でグルーミングし始めていた。
理性が「敵かもしれない」と警告している。
なのに、身体が執着して離れようとしない。
気がつけば、ナイフを持つ手の力が抜け、鼻筋で圭介のうなじをさらに深く愛おしそうに嗅いでいた。
「もう……そろそろ、離して」
「動くな、と言っているだろ……っ」
言葉とは裏腹に、ジャンゴの心臓は激しくトクトクと脈打っていた。
どうしてこんなに胸が苦しくて、甘い気持ちになるのか分からない。
耐えきれなくなったジャンゴは、魔が差したように、圭介の白いうなじへ、そっと自身の唇を合わせてしまった。
「うわっ!?」
「お前……もしかして」
ジャンゴはカシャリとナイフを床に放り捨てると、両手で圭介の肩を掴み、強引に自分の方へと向き直らせた。
あまりの勢いにバランスを崩した二人は、そのまま床へと倒れ込む。
ドサリ、という音と共に、圭介の上にジャンゴが完全に馬乗りになる形になった。
視線が、至近距離で交錯する。
圭介の顔のすぐ横に、ジャンゴの細くも力強い両手が突かれる。
互いの吐息が完全に混ざり合う、わずか数センチの距離。
ジャンゴの金色の瞳が、驚愕でこれ以上ないほど大きく見開かれた。
圭介の顔立ち、その身体の構造、側が告げる性別の正解。
「――男ッ!!!??」
荒野の手練れであるジャンゴの声が、初めて素っ頓狂に裏返った。
「なぜ、なぜ男が」
「こんな辺境の、エレノアの家にいるんだ!?」
その時だった。
タイミングが悪いというレベルを超えた音を立てて、玄関のドアがガチャリと開いた。
「ただいま〜」
上機嫌な、鼻歌混じりの声。
言うまでもなく、仕事を早めに切り上げて愛しの旦那様のもとへ帰ってきたエレノアだった。
しかし、エレノアの言葉は途中で完全に凍りついた。
碧眼に飛び込んできたのは、リビングの床で、褐色の狐獣人が、自分の世界一の宝物の上に馬乗りになり、今にも押し倒さんばかりに顔を近づけているという、最悪の地獄絵図。
部屋の空気が、一瞬で絶対零度へと急降下する。
「お、お前……」
「何をしてやがる……っ」
エレノアの声が、怒りと衝撃で小刻みに震えていた。
金髪の隙間から覗く額に、青筋がピキピキと浮かび上がる。
「待て! 」
「違うんだ、エル!」
ジャンゴが慌てて圭介の上からどこうとしながら、両手を上げて制止する。
「急に部屋に入ってきて、ナイフを突きつけられて……っ」
下から圭介が必死に事実を説明しようとするが、それがかえって火に油を注いだ。
「お前! 余計なことを言うな!」
ジャンゴが顔を真っ赤にして圭介の口を塞ごうとする。
「――そうか」
エレノアの口元が、歪んだニヤリという笑みの形に変形した。
その碧眼からは完全に光が消え、文字通りの『死神』の眼光と化している。
カチャリ、と彼女の両手が、腰の二挺拳銃のグリップへと滑り降りた。
「どろぼう狐というわけか」
「……ぶっ殺してやるッ!!」
「待て――!」
ズドォン!!!
エレノアの超反応による早撃ちが火を噴いた。
並のガンマンなら即死しているタイミングだったが、そこは百戦錬磨のジャンゴだ。
獣人の超絶的な反射速度で、床を転がるようにして咄嗟に扉の影へと身を隠した。
床のフローリングが、激しい銃撃によって木片となって弾け飛ぶ。
「出てこいジャンゴ! 」
「人の男に手を出しといて」
「生きて帰れると思うな!」
「 ぶっ殺してやる!!」
エレノアは完全に嫉妬で前後不覚に陥っていた。
ガシャガシャと凄まじい手際でリロードし、扉の影に向けて銃口を固定する。
尋常ではない殺気だ。
扉の横に背中を預け、冷や汗を流しながら、ジャンゴは視線の先で床に這いつくばっている圭介を睨みつけた。
「おい! お前、説明しろ! 」
「あいつ、俺を殺すつもりだぞ!」
「でも! あなただって」
「賊かもしれないじゃないですか!」
正論を叫ぶ圭介に、ジャンゴは怒鳴り返した。
「賊じゃねえよ! 」
「エレノアのところに誰かいたら、恨みを持ったやつってのが相場なんだよ!」
「 だから警戒したんだ!」
「ごちゃごちゃうるせえええ! 」
「出てこいジャンゴ!」
エレノアの怒声と共に、再び銃弾が壁を貫通してジャンゴのすぐ横をすり抜けた。
シリアスな銃撃戦の皮をかぶった、狂気の嫉妬ラブコメである。
(まずい……)
(このままだと)
(本当にどちらかが死ぬか)
(家が爆破される!)
圭介は床に伏せたまま、ツボニールから授かった『異世界言語』の知識をフル回転させ、現状を収めるための唯一の方法を必死に考えた。
エレノアのあの尋常ではない独占欲と、この世界の『貞操逆転・美醜逆転』のルール。
エレノアを黙らせ、かつジャンゴの命を救うための、狂ったウルトラC。
「エル!! 落ち着いて!!」
圭介は喉がちぎれんばかりに叫んだ。
「多分、誤解だから!」
「いや、もう関係ねえ!」
銃口を向けたまま、エレノアは悔しそうに顔を歪めた。
「俺ですら……」
「まだそんなことしてねえっていうのに……っ!」
泣きそうな顔で引き金に指をかけるエレノアに、圭介は意を決して、男としてのプライドを半分ドブに捨てる覚悟で、無茶苦茶な条件を口走った。
「これノーカンにしよ!!」
「 今度、エルもそれ僕にしていいから!!」
(めちゃくちゃな提案をしてる自覚はあるけど……! )
(ここで死人が出るよりは100倍マシだ!)
顔を引きつらせながら、必死にエレノアを見つめた。
「ほ、ほほんとか……?」
エレノアの動きが、ピタッと止まった。
銃口から立ち上る硝煙の向こうで、彼女の美しい顔が、急速に真っ赤に染まっていく。
「う、うん……!」
「取り消しできねえぞ。」
「いいのか?」
「うん、もう銃収めてよ!」
エレノアは、はうう、と熱い吐息を漏らしながら、もじもじと長い脚をすり合わせ、ゆっくりとコルトを腰へと収めた。
脳内が「圭介への合法的な馬乗りスキンシップ」の妄想で一杯になり、殺意が完全に失せたのだ。
だが、いつでも銃を抜けるように手は腰に当てたままだった。
危険が去ったことを察知し、ジャンゴはゆっくりと扉の影から立ち上がった。
「久しぶりだな、エル」
ジャンゴは衣服の埃を払うと、床から立ち上がった圭介に向けて、形の良い唇を滑らかに釣り上げた。
「それと、さっきはすまない。」
「まさか男がいるとは思わないんでな」
ジャンゴはそう言って、大人の余裕たっぷりに圭介へ微笑んでみせた。
その引き締まった褐色の肢体と野生的な色香に、圭介は思わず息を呑む。
「はい……」
「俺の名はヴィクトリア。」
「ヴィクトリア・“ジャンゴ”・フォックスだ」
片手を腰に当て、堂々と名乗る。
「ジャンゴでいい。」
「お前は命の恩人だからな」
そう言って不敵に微笑むジャンゴの姿を見て、圭介の脳裏に、あるハリウッドの大女優の姿が強烈にオーバーラップした。
「……ハル・ベリーみたいだ」
ポツリと本音が口から漏れてしまった。
「誰だそりゃ」
クスクスと野性的に笑い、その毛深い尻尾を機嫌良さそうに左右に振った。
どうやら、圭介からの不思議な賛美が、存外悪くない響きだったらしい。
だが、その様子を真横で見ていたエレノアの顔が、再びみるみるうちに苦々しく歪んでいった。
(……チッ。また圭介の奴)
(映画に出てくる『美人』の例え話か)
エレノアから見れば、自分の男に色目を使い始めたただのドロボウ狐でしかない。
何より、圭介がジャンゴの容姿をキラキラした目で見つめているのが、最高に面白くなかった。
(早めに帰ってもらうとするか。)
(どうせろくな用事じゃないしな……)
エレノアは圭介の前に立ちはだかるようにしてジャンゴを睨みつけ、フンと鼻を鳴らすのだった。
☆ここまで、読んでくださり、ありがとうございました。
評価ポイント、ブックマーク登録 していただければ、励みになります。




