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第20話 荒野に明日はなくても、君の「おかえり」があれば

 夜。


 辺境の家は静かだった。


 暖炉の火だけが、ぱちり、と小さく音を立てる。


 圭介は欠伸をひとつすると、椅子から立ち上がった。


 真っ白なシャツ。


 それはエレノアの少し大きめのシャツだった。


 袖を折り返した姿が妙に似合っていて、その光景だけでエレノアの鼓動は少し速くなる。


「じゃあ、もう寝るね」


 穏やかな笑顔。


「さすがに今日は飲みすぎたよ。毒には耐性があるけど、お酒では酔うからさ」


「あ、ああ……」


 返事が少し裏返る。


(俺のシャツを……


 当たり前みたいに着てやがる)


 それだけで胸が苦しい。


 こんな感覚は初めてだった。


 圭介が部屋へ向かおうとした、その時だった。


「あ、あのさ……」


 思わず呼び止めていた。


「ん?」


 振り返る圭介。


 柔らかな笑顔。


 その笑顔を見るだけで、勇気が消えていく。


「その……」


 喉が渇く。


「バディって……」


「うん?」


「昼間、言ってただろ。」


「俺たちはバディだって。」


 沈黙。


 本当は聞きたい。


 それは――


 恋人なのか。


 家族なのか。


 人生を共に歩く相手なのか。


 でも。


 拒絶されるのが怖い。


 この家を失うのが怖い。


 ようやく手に入れた温もりが消えることの方が、銃口を向けられるよりずっと怖かった。


 言葉が続かない。


 その沈黙を、圭介が優しく埋めた。


「ブッチとサンダンス。」


「え?」


「君がブッチ。」


 エレノアを指差す。


「僕がサンダンス。」


 少し照れくさそうに笑う。


「『俺たちに明日はない』のボニーとクライド。」


「『トゥルー・ロマンス』のクラレンスとアラバマ。」


「そんな、関係になれたらって」


 静かな声だった。


 飾らない。


 だからこそ胸に刺さる。


(誰だよ……それ。)


 エレノアは知らない映画の名前ばかりだった。


 でも。


 たった一つだけ分かった。


 ――圭介は、自分を一人ではないと思ってくれている。


 それだけで十分だった。


「じゃ、おやすみ。」


「……ああ。」


 圭介が部屋へ入る。


 その直前。


「あ、そうそう。」


「ん?」


「部屋の鍵、壊れてるんだよね。」


 悪戯っぽく笑う。


「じゃ、おやすみ。」


 ぱたん。


 扉が閉まる。


「…………」


 エレノアは動けなかった。


(え。)


(今の……)


(どういう意味だ。)


(鍵が壊れてるって。)


(いやいやいやいや。)


(来てもいいって意味か。)


(違うよな。)


(いやでも。)


(あいつ天然だからな。)


(くそっ。)


(わかんねぇぇぇぇ!!)


 頭を抱えた。


 深夜。


 暖炉の前。


 エレノアは一人、バーボンを口へ運んでいた。


 グラスの中で琥珀色が揺れる。


 昼間の言葉が何度も蘇る。


『僕たちはバディだ。』


『一人で傷つかないで。』


『君が笑ってる方が、僕は嬉しい。』


「……どういう意味だよ。」


 小さく呟く。


 友情なのか。


 愛情なのか。


 分からない。


 分からないから苦しい。


 一口飲む。


 喉が焼ける。


 それでも胸の痛みは消えない。


 暖炉の上には古びた写真立て。


 戦友。


 家族。


 もう誰も残っていない。


 荒野は多くを奪った。


 戦争。


 疫病。


 仲間。


 居場所。


 自分はただ、生き残っただけ。


 視線は壁に掛けたライフルへ向く。


(結局……)


(俺に残ったのは銃だけだ。)


 賞金稼ぎ。


 用心棒。


 喧嘩屋。


 誰かを守るより、誰かを撃つ方が得意な女。


 新聞には新しい時代が載っている。


 鉄道。


 自動車。


 電話。


 自動拳銃。


 機関銃。


 文明は前へ進む。


 なのに、自分だけが取り残されていく。


 まるで夕日に消えていく西部劇のガンマンだった。


「俺なんかといても……」


 小さく笑う。


「未来なんかねぇよ。」


 その笑みは乾いていた。


 荒野の風みたいに。


 それでも。


 帰れば。


「おかえり。」


 そう言ってくれる青年がいる。


 温かい料理がある。


 笑い声がある。


 それだけで、生きたいと思ってしまった。


 だから怖い。


 失うのが。


 グラスを空にする。


「くそ……。」


「俺らしくねぇ。」



 その頃――



 圭介はベッドへ潜り込み、天井を見上げていた。


(今日は、ちょっと意地悪だったかな)


 苦笑する。


「バディ」


 その一言で、エレノアが真っ赤になった顔を思い出す。


 思わず笑みがこぼれた。


(でも……)


(今の暮らし、好きなんだよな)


 毎日「おかえり」と言ってくれる人がいる。


 一緒に食卓を囲む。


 そんな当たり前が、今までの人生にはなかった。


(このままじゃ駄目だ)


(そろそろ働き口も探さないと)


 街で男娼たちが向けてきた視線を思い出す。


(僕は、この世界じゃ目立ちすぎる)


 焦れば失敗する。


 だから慎重に。


「お互い……居場所を探してるんだよね。」


 小さく呟く。


「エレノア。」


 そのまま眠りへ落ちていった。




 一時間後。


 酔いに任せて立ち上がる。


 足取りはふらついていた。


 静かに寝室の扉を開く。


 月明かり。


 ベッドでは圭介が穏やかな寝息を立てている。


 まるで子どものような無防備な寝顔。


「……お前が悪い。」


 小さく笑う。


「そんな顔で笑うから。」


「そんな言葉を言うから。」


 ベッドの横へ座る。


 手を伸ばく。


 頬に触れたい。


 抱きしめたい。


 でも。


 その手は途中で止まった。


「……だめだ。」


 こんなのは違う。


 欲しいのは、一瞬じゃない。


 朝になっても隣にいられる未来だ。


 その時だった。


 圭介が寝返りを打つ。


「……エレノア。」


「!」


 心臓が止まりそうになる。


「君が……」


 寝言。


「大事……だから。」


 沈黙。


 エレノアは目を閉じた。


 酒が一瞬で醒める。


「……反則だろ。」


 震える声。


 そっと前髪をかき上げる。


 そして。


 額へ。


 羽が触れるほど優しく口づけた。


「今は……これで十分だ。」


「おやすみ。」


 静かに部屋を出る。


 扉は音もなく閉じられた。




 翌朝。



「いやぁ……飲みすぎた。」


 パンをかじるエレノア。


 平静を装う。


 装えてはいない。


「そういえばさ。」


 圭介が首を傾げた。


「昨日、不思議な夢を見たんだ。」


「……へぇ。」


 嫌な予感しかしない。


「すごく綺麗な人がさ。」


「額にキスしてくれた夢。」


 ぶっ。


 エレノアはスープを盛大に吹き出した。


「ごほっ、ごほっ!」


「だ、大丈夫!?」


「し、知らねぇ!」


「え?」


「いや、なんでもねぇ!」


 耳まで真っ赤になりながらパンを口へ押し込む。


 圭介は不思議そうに首を傾げるだけだった。


 その様子を見て。


 エレノアは心の中で頭を抱える。


(……たぶん。)


(今日も俺は。)


(こいつに振り回される。)

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