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第12話 「おかえり」がある家

 夕焼けに染まる荒野を、馬がゆっくりと進む。


 今日も一日、殴って、投げて、怒鳴って。


 酒場では大騒ぎだった。


 だが、不思議と疲れはなかった。


 むしろ胸の奥が、そわそわと落ち着かない。


(早く帰りてぇ。)


 気づけば自然と手綱を握る手に力が入っていた。


 家が見える。


 煙突から細い煙が立ち上っている。


 それだけで、胸が熱くなる。


 馬を止めると、慣れた手つきで柵につなぐ。


 そして玄関の扉を開けた。


 カラン、とベルが小さく鳴る。


 家の中は、ほんのり暖かかった。


 誰かがいる。


 誰かが待ってくれている。


 それだけで、満たされる。


「おかえり。」


 黒髪の青年が振り返る。


 優しく笑った。


 その一言だけで。


 今日あった嫌なことも。


 酒場の乱闘も。


 踏み潰されたサンドイッチも。


 全部、どうでもよくなった。


「……ただいま。」


 自然にその言葉が口から出る。


 こんな言葉を誰かに返したのは、いつ以来だろう。


 いや。


 こんなふうに迎えられたことなんて、あっただろうか。


 ふわり、と食欲を誘う香りが鼻をくすぐる。


 鍋の中では赤いソースが湯気を立てていた。


「今日はね。」


「トマトソースのパスタ。」


「ポークを入れてみたんだ。」


 圭介は楽しそうに木べらを動かす。


「あっ、それと。」


「チーズ買ってきてくれたでしょ?」


「あ、ああ……。」


「最後にかけると、もっと美味しいんだ。」


 そう言って嬉しそうにチーズを削り始める。


 その横顔を見ているだけで、頬が緩んでしまう。


(なんなんだよ。)


(この男は。)


(こんな普通のことが。)


(どうしてこんなに嬉しい。)


 エレノアは帽子を脱ぎ、椅子へ腰を下ろした。


 少し照れ臭そうに頭を掻く。


「そうだ。」


「弁当。」


 圭介が振り返る。


「美味かった。」


 短い一言だった。


 けれど、それは心からの言葉だった。


「また作ってくれ。」


 圭介の顔がぱっと明るくなる。


「うん。」


「もちろん。」


「明日も作るね。」


 その笑顔だけで十分だった。


 胸の奥がじんわりと温かくなる。


(幸せって。)


(こんな味だったのか。)


 エレノアは静かに目を細めた。


 少し間を置いて、ぽつりと口を開く。


「そうだ。」


「そのうち友達を連れてくる。」


「友達?」


「うん。」


「教会のシスターだ。」


「へぇ。」


 圭介は少し考えるように顎へ手を当てる。


「じゃあ。」


「何かごちそう作るよ。」


「初めてのお客さんだもん。」


 当たり前のように言う。


 その"当たり前"が、エレノアには眩しかった。


 客が来る。


 一緒に飯を食べる。


 笑い合う。


 そんな暮らしを、自分が送れる日が来るなんて。


「……ふふっ。」


 思わず笑みがこぼれる。


「どうしたの?」


「いや。」


 エレノアは首を振った。


 そして、小さく、本当に小さく呟く。


「……もう。」


「この生活は。」


「手放せねぇな。」


 圭介には聞こえなかった。


「え?」


「なんでもねぇ。」


 エレノアは照れ隠しに笑う。


 窓の外では夕陽がゆっくりと沈んでいく。


 昨日まで、帰るだけだった家。


 今日からは違う。


 ここには。


 「おかえり」と言ってくれる誰かがいる。


 その事実だけで。


 エレノア・ウエストウッドの世界は、もう二度と昔の色には戻れなかった。

☆ここまで、読んでくださり、ありがとうございました。


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