第9話 帰る場所ができた日 ―夫婦みたいな毎日は、恋よりずっと残酷だった―
圭介がエレノアの家へ転がり込んだ翌日。
朝日が差し込む庭で、一挺のレバーアクションライフルが陽光を受けて鈍く輝いていた。
「まずは肩の力を抜け。」
エレノアは圭介の背後へ回る。
そのまま両腕を伸ばし、圭介の手を包むように銃を支えた。
自然と胸が背中へ触れる。
「ここで狙うんだ。」
照準の先には、数十メートル先の空き缶。
だが――。
圭介は真剣な眼差しで照準だけを見つめている。
(近い……。)
(近すぎる……。)
(こいつ……何とも思ってねぇ。)
一番動揺しているのは、教えているエレノアの方だった。
ふわり、と石鹸の香りが鼻をくすぐる。
(……いい匂いだ。)
(離れたくねぇ……。)
男をこんな距離で抱き寄せるなど、生まれて初めてだった。
胸がうるさい。
鼓動が聞こえてしまうんじゃないかと思うほど高鳴る。
思わず目を閉じる。
「あの……もう撃っていい?」
圭介の声で我に返った。
「あ、ああ! そ、そうだな!」
慌てて一歩下がる。
「引き金は引くんじゃねぇ。絞るようにだ。」
パンッ!
乾いた銃声。
空き缶が勢いよく吹き飛んだ。
「いいな。」
「筋がいい。」
「うん。」
「ありがとう。」
屈託なく笑う圭介。
その笑顔だけで、エレノアの顔は熱くなる。
(笑うなよ……。)
(そんな顔されたら……。)
誤魔化すように腰のホルスターからリボルバーを抜いた。
「今度はこっちだ。」
「早撃ちしないならダブルアクションの方が扱いやすい。」
再び背後へ回る。
また同じように腕を重ねる。
また胸が触れる。
(また近い……。)
(神様……勘弁してくれ。)
空き缶がまた吹き飛んだ。
「よし。」
「今度は一人で撃ってみろ。」
「シリンダーの前に指を置くなよ。」
「怪我する。」
圭介は言われた通り構える。
両脇を締める。
呼吸を整える。
ゆっくり引き金を絞る。
パンッ。
命中。
「もう一発。」
パンッ。
命中。
「全部撃ってみろ。」
パンッ。
パンッ。
パンッ。
缶が次々と吹き飛んでいく。
「…………嘘だろ。」
エレノアが呆然と呟く。
「初めてでその集弾か?」
「お前……天才か?」
圭介は困ったように笑う。
「たまたまだよ。」
(いや、スキルのおかげなんだけど。)
もちろん、そんなことは言えない。
それから数日。
仕事の合間を見つけては、エレノアは圭介へ銃と乗馬を教えた。
その代わり。
家事は、ほとんど圭介が引き受けた。
ある日。
庭へ洗濯物を干しに出る。
風に揺れるシャツ。
自分のシャツ。
圭介のシャツ。
靴下。
シーツ。
二人分の洗濯物が、同じ物干し竿で風を受けている。
朝日に照らされて揺れるその光景は、まるで神様が祝福してくれているようだった。
(……夫婦って。)
(毎日こんな景色を見るのか。)
自然と頬が緩む。
「エル。」
圭介が家から顔を出した。
「勝手に洗濯しちゃったけど、大丈夫だった?」
「……おう。」
「ありがとな。」
それだけ言うのが精一杯だった。
(なんなんだよ。)
(こんな幸せ……知らねぇ。)
西部一の醜女。
そう呼ばれ続けた自分の家に。
天使みたいな男がいる。
掃除もそうだった。
帰ってくると、床は磨かれ、机は片付き、ベッドまで整えられている。
しかも全部、ごく自然に。
恩着せがましさなんて欠片もない。
(夫かよ……。)
(勘違いしちまうだろ。)
本当は。
いてくれるだけでよかった。
それだけで十分だったのに。
朝も。
昼も。
夜も。
圭介が作る料理を二人で囲む。
今日の夕食はアメリカングーラッシュ。
マカロニ。
トマト。
塩漬けポーク。
玉ねぎ。
チーズをたっぷり乗せて焼き上げた一皿。
「いただきます。」
圭介は手を合わせた。
「……?」
「言わないの?」
「何だ、それ。」
「食べる前の挨拶。」
「料理を作った人。」
「食材を買うために働いた人。」
「食材を育てた人。」
「命をくれた動物や植物。」
「全部に『ありがとう』って言うんだ。」
「へぇ……。」
エレノアも真似をする。
少しぎこちなく。
「……いただきます。」
一口。
熱々のグラタンを頬張る。
「……うめぇ。」
「久しぶりだ。」
こんな温かい食事。
こんな楽しい食卓。
「街まで行けば、もっと色々作れるよ。」
圭介は笑った。
「今度、一緒に行こうよ。」
その言葉に。
エレノアの胸が少しだけ締め付けられる。
(街には……。)
(もっと綺麗な女がいくらでもいる。)
(俺なんか選ぶ理由なんてねぇ。)
だから慌てて話題を変えた。
「あ、明日から仕事だ。」
「しばらく家にいてくれ。」
「男が一人で歩くと危ねぇ。」
「攫われる。」
「夕方には帰る。」
「……家で待っててくれ。」
「うん。」
圭介は素直に頷いた。
「じゃあ食材お願い。」
「チーズとベーコンがあると料理の幅が広がるから。」
「牛乳は日持ちしないし無理かな。」
「分かった。」
思わず笑みがこぼれる。
(なんだよ。)
(楽しいじゃねぇか。)
(俺たち……。)
(まるで夫婦みてぇだ。)
白黒だった世界に、少しずつ色が戻っていく。
そんな気がした。
◇ ◇ ◇
翌朝。
仕事へ向かおうとすると、圭介が紙袋と水筒を差し出した。
「はい。」
「頑張って。」
「……なんだ?」
「お弁当。」
「サンドイッチ作った。」
エレノアは固まる。
(俺のために……。)
「……迷惑だった?」
不安そうに聞く圭介。
(信じられねぇ。)
(男でここまでするなんて。)
(もしかして俺に……。)
(いやいやいや。)
(勘違いするな。)
必死に自分へ言い聞かせる。
「ば、馬鹿。」
「嬉しいに決まってんだろ。」
圭介は安心したように笑った。
その笑顔だけで。
エレノアの心臓は、また撃ち抜かれた。
「じゃあ、行ってくる。」
馬へ跨る。
家の前では、圭介がずっと手を振っている。
その姿が嬉しくて。
何度も振り返ってしまう。
胸が温かい。
孤独だった。
世界はずっと白黒だった。
いつ死んでもいいと思っていた。
だけど今は違う。
(帰りてぇ。)
(早く仕事を終わらせて。)
(あいつの待つ家に帰りてぇ。)
もう一度振り返る。
まだ圭介は笑って手を振っていた。
涙が滲みそうになる。
(もう……前の生活には戻れねぇ。)
エレノア・ウエストウッドは、気づき始めていた。
恋に落ちた瞬間ではなく――
「帰りたい」と思える場所ができた瞬間こそ、人は本当の意味で誰かを愛し始めるのだということに。
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