戻ってきてよ、この悪魔!
首筋に触れる冷たく細い指先は、それ以上の力を僕の首に掛けなかった。ただ時間が止まったように、静かに僕の首に触れている。脈も体温もないその手はもはやそれ以上動かず、僕もまた同じように動けない。
絵に描いたような膠着状態に、僕は困惑した。僕は死の恐怖に時間が止まった錯覚をしているのかとさえ思った。しかし教会の外からは小鳥がちぴちぴと鳴く声が聞こえ、風が木々をざわめかせている。時が止まってしまったわけでも、僕が錯覚しているわけでもないようだ。だとしたら何故。
その答えは、硬い声によってもたらされた。
「生きたいですか、悪魔エレオス」
僕の身体を押さえつける冷たい氷が、冷たいまま溶けていったような心地がする。硬直していた身体はついに動くようになったような気がした。乾いた目を瞬かせて、僕はその声の源に視線を向けようとした。しかしまだ首がその声の方に動かない。動くのは目と口だけのようだ。
とはいえその声の源を見るまでもない。相手が誰であるかは最早明確だ。その声を聞くのは数世紀ぶりといったところだろうか。かつて共に仕事をしていた時を思い出しながら僕は目を伏せる。しかしその問いに答えを出すべきか悩み、僕は重く沈黙を貫いた。
「メイ……さん」
か細くサロモンの声がした。彼からしたらそこまでブランクの大きくない再会なのだろう。僕がペルシアの方に出かけていた間のお留守番中の一件によって、彼は彼女と出会い、こっぴどい大失恋を喫していたはず。節々でその気配が匂っていたといえど、サロモンはきっとここでマディスと再び遭遇した理由も気づいていない。さぞかし混乱していることだろう。
しかしサロモンの言葉に対して答えは与えられなかった。代わりに柔らかく清らかな声が言葉を紡いだ。
「エレオス……いいえ、エル。私の元に戻ってきて」
僕は少し考えてから口を開いた。
「君も人間を使役するんだね、メイ」
彼女は僕の動きを封じているくせに、まるで雑談でもするときのように平然と僕に応えた。
「ヴィクトルは可哀想な人よ、エル。深い信心をもって悪魔を祓っていたのに、とある悪魔に殺されかけていたところを私が助けてあげたの。それから彼が私を手伝ってくれるようになったというだけのこと」
"信心に懸けて"というヴィクトルの呪文詠唱、主に近い立場でないと得られないような冥界の鍵の破片の所持。その魔力については基本的に彼の信心そのものから発生する本物のそれなのだろうが、マディスの協力があったことを鑑みると納得がいく。
そのうちに彼女は足音もなしに僕の視界に入った。そして片手の指をひらひらと繰らせて骨ばった腕を冥界の内側へ引っ込めさせた。冥界が閉じ、僕の身体がようやく軽くなる。
それとともに彼女は僕の顔を覗き込み、子供のように無邪気に微笑んだ。まるでその答えが是であると信じ切っているような様子で。
「私の元に戻ってきてくれる?」
拘束も解かれたし、今なら動ける。とはいえ有力な祓魔師と高位の天使がいるこの状況は僕たちにとって圧倒的に不利だ。
僕は呆然としているサロモンとマーガレットに視線を遣り、何を思っているのか判然としないような表情で目を瞑っているヴィクトルの姿に目を細めてからマディスと目を合わせた。そしてにっこりと微笑む。
「あいにくだけど、お断りするよ」
彼女がゆっくりと目を見開くのを見終わらないうちに僕は駆け出し、少々乱暴ではあるもののマーガレットとサロモンを両脇に抱えて教会の入口へと全力で走った。
「なっ!ちょっ、何してるの!?」
「エレオス!?」
マーガレットとサロモンが驚いた声を上げた。僕は教会を飛び出し、聖気の弱い場所で足を止める。そのうえで二人分の体を抱え直した。
「命がなくちゃ何もできないからね、こういう時は逃げるが勝ちだ!」
そう宣言すると共に、僕たちは転移魔法を用いてサン・ラ・ヌイト城へ逃げた。




