逃げるが勝ちよ、この悪魔!
ヴィクトルが読み上げる聖書の一文字一文字が、僕の耳を劈く。かつてドロースと相対した時にも聖書を読んだことがあったけれど、悪魔の身で読むそれとは全く質が違う。ヴィクトルが言葉にするそれはあまりにも重たい。
彼の紡ぐ音が耳に伝わり、鼓膜から細胞をじりじりと蝕んでいく。肌に彼の吐息の僅かな振動が触れ、焼け焦げるような痛みを与える。たしかにこの場にいる敬虔な教徒たちの信仰心を上手く操れている点もこの強さに寄与しているだろう。しかし何より聖職者、その中でも祓魔師という悪魔祓いの専門職である彼だからこそ為せる技だろう。
僕とサロモンの立場が蚊帳の外にあったり、僕が天使の頃に彼と出会っていたら僕は彼を讃えたかもしれない。しかし今はそうではない。あいにく賞賛などしている余裕はなさそうだし、僕のサロモンを傷つけたあの男は許し難い。とにかく今は早いところサロモンを引っ掴んで逃げるのが先決だ。
「エレオス、早くしてちょうだい!私こんなところで死ぬ気ないのよ……!」
マーガレットはそうしていかにも早く逃げたいとばかりに腹を立たせた様子でいるし、僕も少々これほどまでの聖気はきつい。おかげで冷や汗が滲んでしまっている。
「分かってる、サロモンも連れて行かなくちゃいけないから!」
そして当のサロモンも、息を乱して苦しんでいる。大きく息を吸い、はっと短く息を吐いたかと思えばヒュッと喉を鳴らして空気を吸う。不規則で苦しげな呼吸を繰り返しながら、眼球の形が分かるほどに目を見開いている。瞬きさえ忘れた瞳からは狂ったように涙が溢れ、その肌には汗が滲む。彼の死という可能性がはっきりとした具現化のおろを帯びてくるのに僕は歯を食いしばった。
サロモンの手首を掴んでも彼は立てそうになかったので、僕は咄嗟に彼の脇に右腕を突っ込んでそのまま持っていくことにした。
しかし最後にヴィクトルを睨みつけて声をかけようとした時、僕は気づいてしまった。
彼は時折サロモンに視線をやっているから、サロモンが苦しんでいるのにも気づいている。そして彼はこれだけの力を持った祓魔師だ。こんなやり方がサロモンの身体に悪影響を及ぼしかねないことは分かるはず。
つまりあの男は、サロモンか死にかねないのを承知で祓魔をしている。
僕は許せなくなって、サロモンをベンチに座らせ直した。そしてあの男に歩み寄ろうとした。
「ちょっとエレオス、馬鹿な真似はしないで……!」
マーガレットが僕の腕を捕まえる。あの男の祓魔のおかげでじりじりと痛む腕に、彼女の華奢な指の感触が深く食い込む。しかし僕はそれを振り払った。
「悪いけど邪魔しないでほしいな」
なるべく落ち着いた声を繕って述べてから、僕はあの男への距離をゆっくりと詰めていった。




