悔い改めろ、この悪魔!
彼女の心臓を踏み潰したはずの足は、埃をかぶった絨毯を踏みつけていた。僕は目を丸くしてあたりを見回し、彼女を探す。
「アンタも大概バカねぇ、慈悲の悪魔さん」
ドロースはそう言いながらきゃらきゃらと笑った。
彼女を磔にするためにその手のひらに刺したナイフは、彼女の手を貫いたままだ。彼女は僕に見せつけるようにその手のひらをこちらに向けてひらひらさせ、突き刺しておいたはずのナイフを引き抜いてみせた。
ぼたたっと血が勢いよく垂れる。しかし彼女は大して痛がる様子もなしに笑っていた。
「アンタとの戦い、ホントに滑稽だったわ!だってアンタ、アタシが簡単にやられてると思って調子に乗ったことたくさん言うんだもん……!あーもうほんと笑っちゃう!」
彼女はやはり馬鹿にするようにケラケラと笑う。心の底から楽しがっているわけではない、馬鹿にするためだけの笑み。悪意に満ちたその笑い声を聞きながら僕は眉をひそめた。
「ねえどんな気分?女の子の顔蹴り付けて、心臓踏みつけて……余裕ぶっこいてたくせに今は武器も取られちゃったもんねぇ!?」
確かに彼女の言うとおり、こちらは生身の体しかない。武器であるナイフを取られてしまった時点で既に使える武器が無いのだ。かなり窮地に追い込まれているのは明確な事実だろう。
この城のどこかにスクレット伯爵が集めていた古い剣の類があるかもしれない。けれどそれを探しながら戦うのもかなり都合が悪いし、サロモンが死んでしまう。
僕はもはや息も絶え絶えになっている彼を見遣って、あまり時間がないことを確認した。
「なーに、余所見する余裕があんの?嫌な男、アンタから突然吹っかけてきたくせにあたしよりそんなクソガキのほうを見ちゃって……そもそもなんでそんなに契約者に執着してんだか理解できないんだけど」
彼女は呆れたような顔をしてそう言いつつ、自分の手に空いた穴を自ら指で開き、そこを空かして僕を覗き込んでいた。それからまた楽しそうに笑いを漏らしたあとで、素早く僕との距離を詰めて喉元にナイフをあてがった。
「このまま首、刎ねちゃおっか」
彼女はやたら甘ったるい声でそう口にしながらナイフの刃で僕の喉を撫でる。
絶体絶命とはこういうことを言うんだろう。生まれた時から十分な力を与えられ、ぬくぬくと人間を助けながら生きてきた僕は初めてそう感じた。こめかみのあたりにつうっと冷たい汗が滲んで、滴るのが分かる。
彼女の心臓を取るのは難しそうだし、相討ち覚悟で悪魔祓いでもしてしまおうか。逆十字架が大好きらしい彼女のことだから、逆に十字架を向けられたら苦しむかもしれない。
それなら召喚魔法と反対のことをすればいいんじゃないか。ナイフを突きつけられたこの状態で、十字架をサロモンの手元に取りに行くのには無理がある。
だけど福音書の朗読ならできる。聖なる言葉であるわけだから、僕にも悪い影響はあるかもしれない。けれど少しくらいなら耐えられる。彼女よりも耐性はあるはずだし、早く決着をつけるにはこれが一番有効だろう。やるしかない。
「悔い改めよ」
僕がそう口にすると、彼女はあからさまに目を丸くして手を震わせた。
今だ、そう直感して僕は彼女の手首を掴んだ。これ以上僕の喉に刃を食い込ませることができないようにその手を握り締めながら続ける。
「天国は近づいた」
彼女は恨めしげに眉をひそめた。僕の手から逃れようとする彼女の手が震える。しかし僕は手を離さない。
「主の道を備えよ、その道を真っ直ぐにせよ」
彼女は苦しげにぎりっと歯を食いしばり、僕を強く睨みつける。
「ッ黙れ……黙れ!!」
とはいえ僕も少し辛くなってきた。昔は耳に馴染んでいたその文言も、今では喉に突き刺さる。一言ずつ福音書の言葉を口にするたびに、喉にぎりぎりと血の味が広がっていく。
「すべての正しいことを成就するのは、我々に相応しいことである」
喉から口の中にせり上がってくる血の味を何度も飲み込みながら僕は続けた。
「やめろ……やめろぉぉぉぉ!!!」
彼女は僕から離れようともがき、聞くまいとばかりに必死に顔を背けようとしていたが、その絶叫を最後にくたりと脱力した。




