許さねえぞ、この悪魔!
すぅ、とサロモンが一つ息を吸い込む。それに合わせて僕は彼のそばに立ち、彼に向けて魔力を流し込んだ。
彼はゆっくりと福音書の逆読みを始める。静かにその声が城の書庫へと響き渡る。僕はそれを聞きながら、悪魔がやってくる気配に神経を研ぎ澄ました。
―かたん、ガタッ。
本棚が揺れる音がし始める。僕たちの足元に蜘蛛が這って書庫から逃げようとし始める。ばさりと本棚の本が落ち、嫌な空気があたりに立ち込める。
この様子なら、あと少ししたら悪魔が現れるだろう。強制召喚に抵抗している気配と、生き物が逃げる気配がするということはそのはずだ。下手に粘られたら僕の魔力が足りなくなってしまうし、なるべく早くここで魔法陣にとっ捕まえてしまいたい。
そう思いながら僕は息を吐いて悪魔が現れるのを待った。
その時にサロモンの様子がおかしくなった。
「ッ、ゔ……っ」
サロモンは苦しげに喉を鳴らしていた。僕はハッとして彼に視線をやる。しかしここで噛んで召喚に失敗するわけには行かないと感じているのか、痛々しく喉を鳴らしながらも正しく逆読みを続けている。
「悪魔が抵抗してるだけだ。そのまま続けて、絶対に噛まないで」
そう一言彼に告げてから、彼に流し込む魔力の量を増やす。これ以上与えたら戦う分が足りなくなる。けれど今の時点でもどうにか拮抗しているくらいだし、上手くいくだろうか。僕も僅かに肌に汗をにじませつつ、そろそろ終わらせようと魔力を一息に増やした。
するとやはり凌げたらしく、魔法陣の上にぼんやりと黒い影が現れた。このまま顕現させてしまえと、僕はその強い魔力で圧迫した。
そのまま少しすると、魔法陣の上に現れた影ははっきりとしてきた。
肩にかからない黒い髪と赤い瞳、背丈は僕より小さくサロモンより大きい。人間の年齢の見た目で数えるんなら、十八歳ほど。赤いシャツに黒のコルセット、無造作に結ばれたリボンタイと丈の短い黒スカート。
そんな見た目をした、女の悪魔だった。
「はぁ!?あっりえないんだけど!クソガキじゃない!生意気そうな顔ね……!強制召喚なんて五百年ぶりなのに!!このアタシを喚び出すってどういうつもり!?」
現れるやいなや、その悪魔は喚き立てた。
サロモンは疲れた様子で逆読みを止めて、そのまま勢いよく咳き込んだ。口元を押さえた彼の手の隙間から血が垂れているのが見える。
「血を垂らさないように。君の方の魔法陣を描き変えると危害を加えられるかもしれないから」
僕はそう彼に忠告して腕を組み、悪魔に歩み寄る。
「は?何よアンタ。悪魔……?気持ち悪い、寄ってこないでくれる?」
悪魔は不機嫌そうにそう言った。
「はじめまして。嗜虐を司る悪魔ドロース、それは君で間違いないかな?僕はエレオス。慈悲を司る悪魔だ。よろしくね」
僕は柔らかくそう告げて、その魔法陣の中にいる彼女にそっと手を差し伸べた。しかし彼女はその手を握ろうとはせず、鼻をツンと上げて僕を見下ろすような素振りをした。
とはいえ僕より身長が小さいから見下ろせていないんだけど。
「ふん、呼び捨てにしないでくれる?アンタみたいな胡散臭い顔の男って嫌いなの。ていうか、は?慈悲?悪魔のくせに何言っちゃってんのよ、馬鹿なんじゃない?」
彼女はそう言ってけらけらと笑った。けれど心の底から笑っているというよりも、馬鹿にしたような笑みだ。僕のことをいかにも嘲るように見てくる。
品のない悪魔だなあと思って僕は少し眉をひそめる。
この態度を見る限り、堕天使出身の悪魔という感じではなさそうだ。生物の純粋な悪意から生まれたタイプの悪魔なんだろうと見当をつけつつ、僕は話を続けた。
「随分失礼な子だね。それと、無駄な殺生をしたくはないから訊きたいんだけど……」
僕がマントの中に手をやって新聞を取り出そうとすると、彼女は僕に噛み付くように声を上げた。
「無駄な殺生って何よ、殺しに無駄なものがあるっていうの?」
僕は思わず面食らってしまう。殺しに無駄があるとかないとか非合理とか合理とか考えたことはないし、ただ必要以上に生き物を殺したくないというのは常識的な考えだろう。彼女が何を言っているのかわからなくて、僕は新聞を取り出しながら首を傾げた。
すると彼女はすぐに人差し指を立てて何やら語り始めた。
「偶然だろうが故意だろうが関係ないわ、醜くくたばったんならその死はその死。きれいに死ぬんならそれもそれ。アタシはそんなあらゆる死の中で一番美しい死を表現してるのよ」
彼女の口ぶりは誇らしげだ。そして僕が黙って聞いているのをいいことに、勝手にヒートアップし始める。
「最初は飢えた猫を殺して足を尻尾に縫い付けたとき。善も悪も知らない弱い子猫ちゃんが悪魔の印を持って死んだのよ、詩的だと思わない?
ああ、それと……ねえ知ってる?百年くらい前の、ローマの夫婦。愛し合う二人を逆十字架の形にして、アタシたち悪魔の名の下に幸せに逝かせてあげたの!もちろんその幸せを二人で共有してもらうために生きたまま四肢を取ったわ。溢れる血はワインみたいで、ぬるいパンみたいな身体を組んで……逆十字架にするの。あのときの悲鳴!聖歌みたいな美しい声だったのよ!それが終わる頃には二人は永遠に結ばれたの……苦しみと幸福の中で!
それからイギリスの方の欲まみれの男も殺したわね。アイツはつまんなかったわ。でも最近一番だったのはやっぱりフランスの牧師夫婦を逆十字架にして……」
「っ……!黙れ!!」
サロモンが吠えた。ドロースは彼に視線をやって、話を遮られたのに不機嫌そうな顔をした。
とにかく、確認するまでもなかったらしい。一連の事件は彼女が起こしたものだったようだ。挙句の果てにサロモンの言った通り、モナークも彼女の犠牲者だったなんて。
許せない、人間をこんなに虐めて楽しそうな顔をするなんて。そもそも何を言っているのか理解できないし、一生分かりあえないタイプの悪魔な気がする。僕はマントに新聞を入れ直しながらそう思った。
「お前が……お前が僕の両親を殺したせいで!それ以外の人を殺したせいで!どんなに多くの人が苦しんだと思ってるんだ!!」
でも裏を返せば、僕と僕の可愛い契約者たちとの出会いは彼女によって引き起こされていることになる。
「やだ、アタシってば家族で殺しそこねたの?それは勿体ないことをしたわねぇ……ていうかそんなに怒ることないじゃない。ブッサイクな顔!」
彼女を殺してしまったら、僕はこれほど可哀想な人間たちと出会うことができなくなってしまうかもしれない。
「っこの、この悪魔め……!」
でも契約上この悪魔は殺さなくちゃいけない。それにそもそも、この悪魔を殺したら晴れて契約解消だ。サロモンともお別れすることになるだろう。
「そうよ、悪魔だけどなに?」
僕がそう色々考えているうちに、何やら口論の末にサロモンが理性を失ったらしい。ぎしっと床板が軋む音でようやく僕は我に返った。
が、遅かった。
彼は怒りに任せて自分の魔法陣から飛び出し、ドロースのいる魔法陣の中へ踏み込んだ。運の悪いことに、手の中に抑えていたはずの吐いた血が魔法陣に滴った。
彼が懸命に描いた魔法陣の一部が滲む。そして同時に、ドロースはしめたとばかりに意地の悪い笑みを浮かべた。
「結局所詮はバカなガキね、つまんないわ」
彼女はそんなことを口にして、彼女に掴みかかろうとしたサロモンの腹を蹴った。




