何が慈悲だ、この悪魔!
パリの薄汚い路地裏。
十三歳ほどで、暗い茶髪をした少年がそこに倒れていた。彼は口の中で転がっていた歯の破片をぷっと吐き捨てた。頬を伝って、唾液と血が混じった液体の中でその歯の欠片がぼろっと流れた。
「ッあぁ、くそ……」
彼は小さく呟き、ゆっくりと身体を起こす。
傷だらけになった身体は、垢で汚れたシャツを血でもっと汚していた。傷口はもう乾いているようだが、その見た目は痛々しいものだった。
「なんで、ボクがこんな目に……。天使様も神様も助けてくれれば良かったのに、何でだよ……」
そう呟きながら、彼は涙を蒼い目に滲ませた。その涙は頬を伝い、殴られ、切られた頬や口の端につんと沁みる。
「いってぇ……」
彼は呟いて、その涙をグシグシと腕で拭った。それから一生懸命に顔を上げて、涙をこぼさないように我慢しようとした。
「やぁ」
その視線の先に現れるのが僕である。
「……えっ?」
僕がにっこりとした笑みを作ると、彼は警戒を全面ににじませた。それからどうにか尻を引き摺って後ずさり、僕から離れようとした。
しかしその動きは鈍いし、身体をとても痛そうに動かすものだから憐れで仕方ない。
「大丈夫かい?怪我してるんなら無理は駄目だよ」
そう言うと彼は胸元から自分のシャツの中に腕を突っ込んで、ペンダントの鎖を引き出すと僕に十字架を向けた。
「俺にはわかる、お前は悪魔だ」
きっと僕を睨みつけて、彼は厳しい口調で言う。
すっかり警戒されているみたいだ。そもそも、僕を見てこんなに敵意をむき出しにする人は初めてだ。元々なるべく好かれるような見た目をしているつもりなんだけど。
僕は少し考えてから溜息を吐いた。
「そうだよ。僕は慈悲を司る悪魔、エレオスだ」
彼は表情を厳しくして噛みつくように答えた。
「悪魔のくせに慈悲なんて語ってんじゃねえ!」
うわあ、こういう子は悪魔生活の中でも初めてだ。さすがにここまて敵意を向けられるケースではどうすればいいのか分からなくて、僕は素で困ってしまった。
「そんなこと言われても、僕を召喚したのは君の方でしょ?」
そう言うと、彼は傷だらけでボロボロの体のままよろよろと立ち上がった。
「何わけわかんねぇこと言ってんだよ、俺が悪魔なんて呼ぶわけないだろ」
彼は僕に、十字架の鋭利な先端を向けた。彼の目はひどく暴力的に光っている。
「俺はレオナール・アダム・ブラン牧師の息子。サロモン・レオナール・ブランだ。父の名にかけてお前みたいな悪魔に隷属する義理はねえよ」
「そのお父さんが死んだのに?」
僕が訊ねると、彼は目を見開いた。それからすぐに憎悪を顕にして、僕を睨みつけた。
「お前か……!お前がやったのか!」
あれ、そんなつもりじゃなかったんだけど……もしかして彼の父親を殺したと勘違いされちゃったのかな。
それを確認するよりも先に、彼はその十字架を僕の心臓目掛けて突き刺そうとしてきた。
危ないなと思って彼の腕を掴むと、予想の三倍くらい簡単に抑えることができた。力が随分弱いみたいだ。
「暴力は良くないよ。そんなことをして、主やお父さんにどんな顔をするんだい」
「うるせぇ!なんでお前に説教されなきゃいけねえんだよ!パパもママも殺されたんだ!ボクはこの手で犯人に敵を討つためなら地獄にでも堕ちてやる……!」
彼はそう言いながら僕の手から離れるためにもがこうとしたが、彼の力はやっぱり弱い。僕は思わず笑ってしまった。
「君はこんなに弱いのに、そんなことができると思う?」
笑み混じりにそう質問すると、彼は強く歯を食いしばった。
「お前……!馬鹿にするのも大概にしろよ!」
「馬鹿になんかしてないよ、実際君は弱いだろう。現に僕は、君相手に片手しか使ってないんだよ?」
彼は言葉を詰まらせる。
「僕は慈悲深い悪魔なんだよ、サロモン君。君の血を少し貰えれば、その復讐のお手伝いだってしてあげられる」
その中で彼の血が流れているだろう首筋に爪を当てると、彼は僕の手を振り払った。しかし、先程のように噛みついてはこない。
「心の底からの涙と、救いを求める言葉。そうして僕を召喚したのは紛れもなく君だ」
彼は眉をひそめ、複雑そうに目を伏せた。
「全て君の思い通りにすればいい」
僕はそう告げて微笑んだ。




