第二十話 彼女は○○○○
大変遅れてしまい、申し訳ありませんでした。
「おはよう・・・・・・」
「おはようございます!」
寝ぼけ声で言った俺に対して、萌葱が明るい声で返してくる。相変わらず、指はキーボードを操作しているが、挨拶の時一瞬だけ、目がこちらを向いた。レンズの奥で細められた目を見て、俺は静かに日常というものを噛み締める。
萌葱は、落ち着いた色合いのセーターに、ジーンズというラフな格好でテーブルに座っている。本人は、ロリータを気に入ったみたいだが、いくら家だといっても四六時中視界の端にフリフリのレースが写っていると、複雑な気持ちがするからやめてもらった。今はもっぱら、お気に入りの服を着まわしている。
音無先輩に付き添ってもらい、先日ようやく新しいメガネを購入した萌葱。茶色いフレームのメガネをかけて、セミロングの茶髪をひとつに結い上げていると、パソコンに向かって仕事をしている美女、っぽく見えなくもないが、もちろん画面の中では色とりどりのエフェクトが舞っている。
それでも、ここ最近の萌葱はいい方向に変わっていて、その原因はやっぱり音無鈴という友人の存在だと思う。
なんてことを考えながら、キッチンで朝のコーヒーを入れていた俺は、ふと流し台を見て目を疑った。
そこにあったのは、使った形跡のあるフライパンと、皿、マグカップ。これらが示す事実は――
「萌葱、まさか自炊したのか?!」
「? はい、そうですけど」
信じられない。俺は、実はまだ目が覚めていないんじゃあないかと、目を勢いよくこすった。けれど、目の前の光景は変わらない。
――あの柏木萌葱が、朝の挨拶をするようになっただけでなく、あまつさえ自分で食事を用意したというのだ。ほんの、一週間ぐらい前まではインスタント味噌汁の、味噌で食事を済ませようとしていた彼女が。
「わるものAさんに教えてもらった、目玉焼きを作ってみたんですよ。ちゃんと、色もついていました。」
やや、自慢げに言う萌葱。
彼女の周りはいつからか、もう「部屋」と確証がもてる様子に様変わりしている。
萌葱と暮らし始めて二ヶ月。確かな変化が訪れていた。
「へーぇ! 萌葱ちゃんが、そこまで女性らしくなったなんて・・・・・・」
俺の言葉に、音無先輩は本気で驚いていた。
「そっかぁ、あの子がそんなにね。今度会ったらギュってしてあげなくちゃ・・・・・・そしてから、あんなことや、こんなことを・・・・・・」
俺は最後の一言は聞かなかったことにして、手に持った書類を整理する。厚みのあるそれは、全て会社に寄せられた苦情の報告書などだ。
本来なら、俺の仕事は一時間前に終了しているのだが、帰ろうとしたところを先輩につかまり、今に至るというわけだ。
「こっち、終わりましたよ。先輩。」
「んー、ご苦労さま。いやぁ、便利だね、A君は。仕事は早いし、ケアレスミスもないし。」
そんなことを言いながら、新たな書類を押し付けようとしてくる先輩。
今現在、俺と先輩しか個室にいないこともあり、全く遠慮がない。敬語もどこに行ったんだか。
「そろそろ帰りたいんだが・・・・・・。」
対する俺も、会社での先輩との関係を測りかねているせいか、口調は素に戻っている。
「つれないねー。」
先輩も、本気ではなかったようであっさりと書類を下ろす。
「じゃあ、これ出してくるんで。」
「あ、待って。」
どうかしたんだろうか、そう思っていると先輩は慌てたように席を立ち、ドアに手をかけていた俺のそばに寄ってくる。
「あたしが出さないと、怒られちゃうじゃん。」
そう言って、ドアノブに手をかけた先輩。
「じゃあ、お願いしとくが・・・・・・」
「あら、かよわい女性にそんな重いものを持たせるつもり? さぁ、行った行った!」
「・・・・・・」
俺の脳裏に、一瞬マンションで襟を掴まれ引きずられた記憶が蘇る。どう思っても、あれは「かよわい」なんて枕詞がつく女性の行動じゃなかった。
「何か、不満でもございますか?」
人目のある社内の廊下へと出たとたん、ころっと態度を変えた先輩。その細められた目に薄ら寒いものを感じ、俺はさっさと従うことにした。
俺の働く会社「トライアングル フェニックス」は、かなり大きな会社だ。その本社であるここは、廊下ひとつとっても、普通とは桁違いに広々としている。
そんな廊下を、二人並んで歩く俺と先輩。いきなり、廊下の広さの話なんてして、どうしたんだと思った方もいると思うが、俺が言いたいのは――近いのだ。先輩の距離が、圧倒的に。
何度も言うが、廊下はかなり広い。それこそ、屈強なボディビルダー5人が手をつないで歩けるレベル。だというのに、一歩踏み出すたびに、先輩の肘や肩が書類を持った俺の腕に当たるのだ。
多くの人が歩いている状況なら、まだ納得できるが、今は早番と遅番の人が入れ替わるタイミングであり、人影はまばらだ。少しぐらい幅をとっても、大丈夫なはずなのに、先輩のこの距離。
その、少ない人々が俺たちとすれ違うたび、鋭い視線を浴びせてくる。
当然だろう。曲がりなりにも美人の範疇に入る先輩と、やけに距離の近い男。興味を抱かないわけがない。
「あ、あの先輩。近くないですか?」
「気のせいですね。」
まだ、あの誤解(?)を解くことはできていない。先輩から告白―形だけのなにか―も、頻度は減ったものの、もはや恒例行事となりつつある。
仕方ないのか・・・・・・俺は小さく嘆息しようとし、横目で睨む先輩の迫力に負けて、吐き出そうとした息を必死に飲み下した。
歩くこと、数分。ようやく目的の部屋に到着し、腕にかかる僅かな重みと、それをはるかに超える視線の重圧から解放される。
腕時計を確認する。5時半。本来なら4時には会社を出ているはずだから、かなりの残業(?)時間が経過していた。
もうすぐ、萌葱が夕食を食べる時間になる。いくら自炊が可能になったといっても、心配なものは心配だった。
「失礼いたしました。」
完璧な物腰で出てきた先輩に、断りを入れて帰ろうと口を開きかけた俺は、固まった。
正確には、言葉を発することが出来なかったのだが。理由は至極単純。
俺が声を出そうとしたその瞬間、社内が静まり返ったのだ。それはほんの一瞬のことで、社内はしかしどこか遠慮しているような話し声で再び満たされていく。
「あ、」
隣で先輩が、小さく礼をした。慌てて俺もそれに習う。
一瞬の静寂の原因は、たった今フロアに通じるエレベーターから出てきたひと組の男女。
高級そうなスーツ。何者も逆らえない・・・・・・そんなオーラ。
「ご苦労。」
男女の内、男が静かに応え、突き当りにあった重厚な扉を開けて入っていく。
「さっきのは?」
「社長とその奥様。」
小声で聞いた俺に短く答える先輩。なるほど、あれがこの会社で一番の権力を持つ人間か・・・・・・確かに、そんな雰囲気を持ってたな。
それにしても
「似てる、でしょ。」
「あ、あぁ。」
心の中の疑問を寸分違わず言い当てられ、俺は曖昧に返事を返す。
社長じゃない。その奥様・・・・・・つまり、副社長らしいが、彼女がそっくりなのだ。今頃マンションで腹を空かせているであろう彼女―萌葱に。
少しくすんだ茶髪といい、伏し目がちな目といい・・・・・・。
「そりゃあ、そうよ。だって、親子だもの。」
「あぁ、なるほど。」
ん?
「って・・・・・・・・・・・・親子?!」
「そう言ってるじゃない。」
つい声量が大きくなってしまった俺を、たしなめる先輩。けれど、一斉に集まった周りの視線を気にする余裕は、俺にはなかった。
「萌葱は、じゃあ・・・・・・社長令嬢、ってことか?」
「まぁ、そうなるかもしれない、わね」
どこか歯切れの悪い調子で肯定する先輩。だが、これでようやく納得できた。社長令嬢のコネだったら、あんな形で入社なんて簡単なことだ。
「じ、じゃあ、この辺で・・・・・・」
「あ、ちょっと待ってよ、A君! 一緒に食事でも・・・・・・って、おーい!」
後ろで何かを叫んでいる先輩に気づかず、俺はフラフラとその場をあとにした。
柏木萌葱。彼女に関して俺は今まで何も知ろうとしてこなかった。けれど、もし、これから先も関わっていくのなら、そろそろ知っていくべきなのかもしれない。お互いのことを、もっと。
俺は、そんなことを考えながら歩いていた。その考えが、ある事件へ繋がっていくことを、この時の俺は全く予想していなかった。
ありがとうございました。そろそろ、終わりですね。




