千夏の空⑥
その日は朝からしとしとと雨が降っていた。
千夏の学校生活への配慮から、「農業日和!」の収録は月二回、土曜日に固定されていたため、天気に恵まれない日も当然出てくる。
「今日は雨ですね……」
千夏が傘をたたみながら、農園の事務所に入ると、優花がタブレットで天気図を確認していた。
「それだけじゃないよ。台風が近づいてる」
優花の声に、城田が頷く。
「気象予報士さんの見立てはどうです?」
「台風十二号、中心気圧九百八十ヘクトパスカル、最大風速三十メートル。明後日にはこのあたりに最接近する予測です。明日には暴風域に入る可能性もあります」
優花がタブレットの画面を回して見せると、城田が渋い顔をした。
「こりゃあ、早めに対策しないとな」
農園スタッフも集まり、支柱の補強やビニールハウスの固定、排水路の確認など、被害を最小限に抑えるための作業に取り掛かった。
「私たちもやります!」
千夏も率先して作業に加わり、優花とともに土嚢を積んだり、風で飛ばされそうな道具を倉庫にしまったりした。
「千夏ちゃん、土嚢ってこうやって積むといいよ」
「なるほど、ピラミッド型にすると安定するんですね!」
作業に没頭していると、時間はあっという間に過ぎた。雨は次第に強まり、風も少しずつ勢いを増していく。
「よし、これでひとまず大丈夫だろう」
城田が頷き、全員がほっと息をついた。
その後の収録は、農園内の加工場で食品加工体験をする内容だった。
「今日は、ブルーベリージャムを作ります!」
優花と千夏が笑顔でカメラに向かって話し、作業を進めていると——。
ゴロゴロ……ドーン!!
突然の雷鳴が響き、場の空気が一瞬凍りついた。
「わーっ! わーっ!」
悲鳴のような声が上がる。
その声の主は、農園で働く知的障害のある青年だった。彼は両手で耳を塞ぎながらパニックに陥り、恐怖に耐えきれず自分の手を強く噛み始めた。
「マモルくん、大丈夫、大丈夫!」
若手の支援員が必死に声をかけるが、彼は壁に頭を打ちつけ、さらに大きな声で叫んだ。
近くにいた高齢の農作業員がぽつりと呟く。
「ああ、あの子は天気が悪いとき、いつもああだからなぁ。どこか静かな場所、連れて行けば落ち着くだろう」
その言葉を聞いた千夏は、そっとマモルのそばに歩み寄った。
(あのときの自分と同じだ……)
「自分はいてもいなくても同じ」と思って、孤独に震えていたかつての自分。そのとき欲しかったのは、正論ではなく、ただ寄り添ってくれる存在だった。
雷鳴がまだ遠くで鳴り響いている。
千夏は慌てずに、厨房の片隅にあった温かいお茶を一杯持ってきた。
「……こんなに腫れるまで噛むなんて、辛かったですね」
彼に寄り添うようにして、小さく優しく声をかける。
マモルは一瞬、千夏の顔を見た。
千夏は笑顔を崩さずに、お茶をそっと差し出した。
「これ、温かいですよ。飲んでみませんか?」
彼は少し迷ったような表情をしたが、千夏がそっと彼の手を包むようにしてお茶を持たせると、ゆっくりと口をつけた。
その瞬間、肩の力が抜け、呼吸が少しずつ落ち着いていく。
「……大丈夫ですからね。怖かったですね」
彼は千夏をじっと見つめ、そして少しずつ元の作業に戻っていった。
その後、千夏は城田のもとへ向かった。
「私、差し出がましいことをしてしまって……すみません」
すると、城田は優しく笑った。
「いや、高原さん、あなたのような寄り添い方ができる支援者はなかなかいませんよ」
「え……?」
「ベテランでも、パニックになった利用者をあんなに自然に落ち着かせるのは難しい。あなたは彼の気持ちをちゃんと受け止めてあげた。それは立派な支援ですよ」
千夏は驚いたように城田を見た。そして、隣にいた優花もまた、にこりと微笑んでいた。
「千夏ちゃん、素敵だったよ」
千夏は照れくさそうに、でもどこか誇らしげに笑った。
翌日、台風が通過した。
幸い、農園の作物への被害は最小限に抑えられた。事前にしっかりとした対策を行ったおかげだった。
その時の様子は番組で放送され、視聴者からは「農業の防災について初めて知った」「支援のシーンに感動した」「千夏ちゃんの行動が素晴らしかった」と、たくさんのコメントが寄せられた。
城田も、「この番組のおかげで、農業と障害者支援への理解が広がっている」と喜びを口にした。
千夏は、収録の合間に、視聴者の声を読みながら、改めて自分の経験が誰かの役に立てたことを実感した。
土のついた軍手を見ながら、
「私……ここに来てよかった」
そう呟く千夏の横で、優花が優しく微笑んだ。
「農業日和!」の収録が始まって半年。
夏の厳しい暑さを乗り越え、農園は実りの秋を迎えていた。
ブロッコリー、カボチャ、サツマイモ、大根——。
収穫の時期を迎えた畑には、立派に育った作物が並んでいる。
今日は「農業日和!」の最終回。農作物の収穫や出荷の様子を中継し、半年間の集大成となる放送だった。
だが、優花は翌日に控えた日本エアウェーブのイベント準備のため、午前中の収録に間に合わない。
「千夏ちゃん、一人で大丈夫?」
出発前の優花が心配そうに声をかける。
かつてなら、不安げな顔で「無理です!」と言っていた千夏だったが——
「大丈夫です。優花さんが来るまで、私が頑張ります!」
千夏は自信に満ちた笑顔で答えた。
成長した千夏の姿に、優花は思わず微笑んだ。
「うん、期待してるね。頑張って!」
収録が始まる。
千夏は、広がる畑の前に立ち、カメラに向かって語り始めた。
「こんにちは! 高原千夏です。『農業日和!』もいよいよ最終回。今日は、収穫の秋を迎えた農園の様子をお届けします!」
以前は緊張すると視線が泳ぎ、声が震えていた千夏。
しかし、今日は違う。
はっきりとした声、落ち着いた話し方。
何より、目の前の視聴者にしっかり伝えようとする意志が感じられた。
「まずは、大根の収穫です。見てください! 立派に育っていますね」
千夏は農園スタッフとともに土に埋まった大根を抜き、笑顔でカメラに向ける。
「これは、土の温度が下がり始めたことで甘みが増した大根です。実は、大根は朝晩の気温差が大きいほど、糖度が上がるんですよ」
スタッフも感心したように頷く。
「千夏ちゃん、すっかり農業の専門家みたいだね」
「いえいえ、まだまだ勉強中です。でも、優花さんと一緒に学んできたおかげで、こうして気象と農業の関係をお伝えできるようになりました!」
千夏は以前と違い、堂々とカメラに向かって話している。
収録が進む中、ようやく優花が合流した。
「千夏ちゃん、お疲れさま!」
「優花さん!」
畑の一角で千夏が駆け寄ると、優花はニコリと笑う。
「今、出荷の準備をしているところなんです」
千夏が出荷用の野菜を並べながら説明する。
「今日は、収穫したブロッコリーやカボチャ、サツマイモを使った料理を作ります!」
農園のスタッフとともに、収穫したばかりの野菜を使った料理が並ぶ。
焼きたてのサツマイモ、ホクホクのカボチャの煮物、蒸したブロッコリーに特製ソースをかけた一品。
「わぁ、美味しそう!」
優花も嬉しそうに料理を手に取り、一口食べる。
「うん! 甘くて美味しい!」
「でしょ? サツマイモは低温でじっくり火を通すことで、デンプンが糖に変わって甘くなるんですよ」
「おお、さすが千夏ちゃん! すっかり気象と農業のスペシャリストだね!」
千夏は照れくさそうに笑った。
「優花さんのおかげです。でも、今はもう自信を持って言えます。『農業日和!』で学んだこと、ずっと大切にします!」
その言葉を聞いた優花は、心の底から嬉しくなった。
————半年間で、千夏は本当に成長した。
かつては人前で話すのが苦手で、すぐに「すみません」と謝ってばかりだった千夏。
しかし今は、カメラの前で堂々と話し、視聴者に伝えようと努力している。
そんな千夏の成長が、何よりも誇らしかった。
「千夏ちゃん、本当に頑張ったね」
優花は優しく微笑みながら言った。
千夏も、満面の笑みで頷いた。
こうして、「農業日和!」は最終回の収録を終えた。




